海外エンタメ 千一夜物語

もの好きビルコンティが大好きなゲームオブスローンズを中心にゴシップ話も交えて、海外ドラマ・エンタメを一人語り・・・

『鬼滅の刃 無限列車編』に読み取る夢世界と我妻善逸が抱える闇 極私的深読み

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『鬼滅の刃 無限列車編』TVアニメ版公開中ということで、鬼滅ブームがまた熱くなってますね。多くの人から愛されて、感動を呼んでる作品だから、今更感想言うのも野暮。なんで、どうしても気になる夢と無意識領域、そこから見えてくる善逸の心の闇を想像を交えて深読みしてみたいかと…ネタバレありです。

 

 

『鬼滅の刃』はスゴってこと

『鬼滅の刃』って凄い作品だと思います。これだけ人気なんだから、凄くないわけないんですけど...
戦う少年漫画のさまざまな名作の要素を踏襲しつつ、カッコいいイケメンキャラが活躍する、誰でも好きなキャラがみつかる剣劇エンタテイメント!なおかつ、主人公の竈門炭次郎と同期の鬼殺隊士の我妻善逸、嘴平伊之助少年たちの成長物語。王道少年漫画です。

なんですけど、鬼舞辻無惨が象徴する一般市民を犠牲にするトランスヒューマニズム(人間の形態や限界を超克しようという超人主義)と、家族や信義を背負う全編の主人公の竈門炭治郎や鬼殺隊隊士たちのヒューマニズム(人間中心主義・人間愛)の闘いなんていう、極めて今日的な、重要なテーマを扱ってるんですね。

 

それもね、屁理屈じゃなくて、詩的な情念の言葉で伝わってくる
上弦の参の鬼・猗窩座に不死の超人である鬼になるようにリクルートされて、『無限列車編』の主人公で炎柱の煉獄杏寿郎が言うじゃないですか。「老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ」ってね。

そういう人間である弱さや儚さを慈しむことが大切だって、ス~ッと入ってくる
『銀河鉄道999』にもトランスヒューマニズムとの戦いはありましたけれど、その現実化がロボットになることから、血液注入という遺伝子操作的な手段でなったことで、より今日的だと感じるわけです。

 

さらに、鬼になるしかなかった人々の葛藤もしっかり描いている。人の持つ心の闇や鬼の持つ悲しさ。少女漫画のように繊細な内面描写をしながら、それでも鬼を悪として誅殺することで少年漫画的エンタメの枠内に入るというギリギリの勝負をしている。本当に凄いなあと思います。

 

『ソラリス』みたいな無限列車空間

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『無限列車編』で下弦の壱の鬼である魘夢が仕掛けてくる、幸福な夢の中に人を閉じ込めてしまうっていう術は、なんかスタニスワフ・レムのSF小説『ソラリス』を思わせたりもします。1970年代にはアンドレイ・タルコフスキー監督が、2002年にはスティーブン・ソダーバーグ監督が映画化した名作ですね。

 

ソラリスという惑星を覆う知的な生命体である海では、研究に訪れた人間たちが自殺したり、引きこもったりしている。というのも海は人間の意識下の記憶に存在する因深い人物のコピーを作り出して宇宙ステーションに送り込んでくるから。主人公は死んだ恋人のハリーと再会して暮らし、疑いを持ちながらも愛し合うようになり、海の作つくり出す世界に溺れていく。ってな内容。

 

人間は、幸福な夢から覚めたくはない。夢だと分かっていても、そこから出たくはない。夜行列車に乗り込んだ人間に幸福な夢を見せて、無抵抗にするって、ソラリスの海と同じメカニズム。ただ、海の意図が善なのか悪なのかは分からない。
魘夢が幸福な夢を見せるのは夢見る人間を喰っちまう、殺しちまうのが目的。っていう、害意があるところが根本的に違います。

そこで『ソラリス』は思索的フィクションとなり、『無限列車編』はもっと分かりやすい勧善懲悪のエンタメになるのですね。

 

魘夢の夢をフロイトの無意識モデルから解釈してみる

杏寿郎に連れられて鬼討伐のために列車に乗り込んだ炭次郎、善逸と伊之助。彼らを倒すために、魘夢は自分が見せる夢のメカニズムを利用します。

それは、「夢見ている者を中心に」夢が「円形となって」いて、「夢の外側には無意識の領域があり」そこには球形の「"精神の核"が存在していて」「これ(核)を破壊されると持ち主は廃人になる」というものです。

夢を見続けたいばかりに自分の支配下に入った人間たちを杏寿郎たちの夢の中に送り込み、"精神の核"を破壊させる目論見を魘夢は実行しました。

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「幸せな夢」って現実では手に入らない願望充足ですよね。無意識の領域から意識に介入してくる願望としての夢。なおかつ無意識世界に精神の核=自我が存在している。ってことは、この意識構造、ジークムント・フロイトが提唱した深層心理学の意識モデルに近いものとして考えていくのが、適切かと思います。

 

フロイトの意識モデルだと、
「私は今、我妻善逸に関する考察を行っている」みたいに覚醒して意識できる精神の領域は海上に浮かんだ氷山の一角のようなもの。

海面下には意識に上って来れない膨大な無意識の領域が拡がっていて、私が持つ道徳的規範と相違する意識内容は抑圧されて水面下に押しやられているってことになります。

で、道徳規範は常にリビドー(性的衝動)を抑圧するので神経症が起こるというフロイトの理論だと「私が考察するのは抑圧あされた性的欲望によるもの」となってしまい、魘夢の夢メカニズムは説明不能になってしまうので、リビドーこそが総ての動機っていう考え方を意識モデルから外して修正してみます。

「何で私が善逸を考察対象に選んだのか?何故、この方向で考察を行っているのか」みたいな行動を起動させるものは、水面下に押しやられ幼児期から溜まって抑圧された記憶や意識なのが複合した願望や執着、恐怖、不安や嫌悪である。って解釈すると、『無限列車編』の夢メカニズムと適合してきますかと。

 

無意識領域に見えるのはその人の原風景

杏寿郎が見ていたのは、人生に挫折した父の槇寿郎に代わり鬼殺隊の最高位である柱になった報告をして、「くだらん…どうでもいい」と父親に一蹴される夢。こんな風に否定されることは、悲しく不安で屈辱的。一見、幸福な夢には見えません。が~~
『ファンブック弐』の『煉獄零話』によれば、杏寿郎は入隊時点から「才能がない」と父親に言われ炎の呼吸の指導も受けられなかったのです。槇寿郎の拒絶は我が子を「死なせたくない」という思いからではなかったかと杏寿郎は推測しています。
※『ファンブック 弐』は『鬼滅の刃 公式ファンブック 鬼殺隊見聞録 弐』のこと。以下同様。

いずれの場合にしろ、努力を続けることで不可能と言われた自分を実現することができるという証しの夢。努力し続けることで亡き母の「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です」という言葉に沿える男であり続けることができる、弟の千寿郎を守ることもできるという、杏寿郎の奥深い願望が満ちたりた夢ではないでしょうか。

だから、杏寿郎の無意識領域では正義を貫き、戦い続ける情熱の炎が燃えていたのだと。

 

無意識領域は、本来であれば混とんとして形の定まらない深淵のはずですが、この作品では明確な風景として表されています。それぞれの例を観察すると、この光景は夢見る人の無意識の上層を覆う、その人間性を示す原風景といえると思われます。

 

鬼に家族を殺され、妹の禰豆子を鬼にされて幸福を奪われた炭治郎は、夢の中で家族と暮らす日々に戻っています。ただ、その幸せな世界がまやかしだと気づいて、脱出しようともがきます。願望充足の夢と、それがまやかしであるという自覚と葛藤。とても炭治郎らしい夢です。
そして、彼の無意識領域は輝くような水面と碧空の静謐な世界。貧しいけれども、家族の愛情に満たされて育った炭治郎は、正義を貫くと同時に、やさしく、思いやり深く、許す心を持った少年。彼の原風景は、彼の心の美しさをそのまま反映していると言えるでしょう。

 

伊之助は、小動物と化した炭治郎、善逸、禰豆子を親分として引き連れて洞窟探検。洞窟の主に戦いを挑みにいく自分を夢見ています。
この夢も、分かりやすいですね。自然の中で猪に育てられた伊之助は、生存・闘争本能で鬼殺隊士けれども語彙が足りない。現実では皆よりも動物に近く、考えが足りないので戦いの足を引っ張ったりする存在。夢の中では、伊之助が人間で仲間は動物。伊之助こそが全きリーダーとして、慣れ親しんだ大自然の中で大好きな闘いの場に赴く。まさに願望充足の夢です。

洞窟は光が差さないので仄暗く危険。でも、秘密の宝が埋まっている場所でもあります。洞窟は閉鎖的だけれども、人はそこから出て光の世界にも出ていける。鬼殺隊に入ったことでやっと人生が始まったばかりの伊之助は、自分を表現する言葉が見つからないという闇の中から外に出て、学習することで成長できる。輝く未来がある。これは、未来へ向かう希望の夢でもあります。

伊之助の無意識領域も洞窟のようです。それも、狭くてヌメヌメしている。洞窟は子宮を象徴するという説もあります。このヴィジュアルは産道のようです。まるで、伊之助はまだ生まれていない、母親の胎内にいるような感じ。赤ちゃんの時に母親に捨てられ、猪に育てられた彼は、複雑な感情を表す言葉がないので「ホワホワ」するばかり。人間としてはまだ生まれてさえいない胎児の世界にいるという原風景は、伊之助にピッタリです。

 

杏寿郎も炭治も伊之助も人生の原点となる場所に戻り、過去の幸福に浸ったり、未来に向けた行動を始めたりしています。そして、炭治郎は過去に浸る自分を切り捨てる。ある意味、成長する青少年の健全な夢といえるでしょう。

 

幸福な善逸の夢と真闇の無意識領域

善逸の夢は幸福そのもの。大好きな桃林で人間に戻った禰豆子と手つなぎデートシロツメクサの花冠を作ってあげるなんて、とてもロマンティックなことを言ってます。

善逸は元鳴柱の育手(教育係)桑島慈悟郎の下で剣の修行をしていました。善逸は桑島師匠を爺ちゃんと呼んでなつき、自分を嫌っていた兄弟子の獪岳さえも兄貴と呼んでいます。桑島家は、捨て子の善逸が初めて家族を見出した場所
桃ノ木は桑島師匠の家にあった樹木、夢の善逸は桑島師匠に与えられた作務衣のようなものを着ています。
幸せだった場所に戻って禰豆子と遊ぶ。善逸にとっては一番の幸福なのでしょう。

他の3人と比較すると、善逸の夢には成長する葛藤や苦しみが欠けています

 

花冠を編む少年という概念は、「男子〇〇たるべし」な道徳観に縛られていた大正時代にはかなり珍しいものだったでしょう。幼い少女同士にむしろ相応しいと考えられるような遊び。それが善逸には心地よいのでしょう。

デートの際に善逸が男らしさを誇示するのは、川があるから「俺がおんぶしてひとっ飛びですよ...お任せくださいな」というところぐらい。「女好き」と言われる割には、男性としてのパワーの示威行為などしないのが、善逸という人物の特徴でもあります。

シロツメクサの花言葉は「幸福、約束、復讐」だそうです。だから、「2人で幸せになろうねという約束を破ったら復讐するよ」というような、怖さもこの花冠にはあり、そんな冠づくりを笑顔で話す善逸には危うさもあります。

 

善逸の危うさ、怖さが前面に出てくるのが、彼の無意識領域

善逸の無意識領域は「真っ暗で何も見えない」闇の世界。侵入者は「体中に墨汁を塗りたくられて」いるように感じる、息苦しく体が重くなるような世界。

さらに、そこには巨大で鋭利なな剪定バサミを持った善逸自身がいて、「何で男なんかが入り込んでやがる クッソ害虫が」「ここに入ってきていいのは禰豆子ちゃんだけなんだよ。殺すぞ」と、脅しをかけてくる。

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漫画の注意書きには「異常に我が強い奴の無意識領域には人が存在する場合がある」と説明されています。ここで注意すべきなのは、本人ではなく「人が存在する」という表現です。

善逸の無意識領域にいる人物は善逸と同じ背格好と顔立ち。ですが、臆病で心優しく、喰いしんぼうでふっくらした現実の善逸とは真逆。痩せこけて猜疑心が強く、悪意に満ちています。

幸福過ぎる夢とは不釣り合いで、陰惨ともいいうべき無意識領域。作者の吾峠呼世晴氏の世界観&人物の作り込みは非常に精緻なので、無意識領域を探ることで、我妻善逸への解釈がより深まると考えるアタシです。

ということで、ここからは、善逸の精神世界を考察していきますかと...。作中から善逸の過去として考えられる事象、在意識(無意識領域ではない、覚醒し機能している意識)に現われている事象の検討から始めます。

 

善逸の捨て子事情を考えてみる。

桑島師匠と出会うまでの善逸の子供時代、過去の描写は作品にありません

 『無限列車編』や『遊郭編』をはるかに過ぎた第163話の「本物の捨て子ならおくるみに名前も入れねえよ 俺みたいにな」という述懐から、乳児のときに捨てられた子供だったということがさらりと語られるくらいです。

大正時代辺りまで、貧乏や子沢山などの理由から子供を捨てる現象はよくあったということです。ただ、持たせたお守りに名前や生まれた月日を書き込んで捨てるという例も多かったようなので、善逸の捨てられ方は特殊です。
読み書きのできない親だったのでしょうか?善逸の出身地が東京府牛込区であったことを考えると、ちょっと違うような気がします。

江戸時代には武家屋敷が並び、近代には文豪が多く住まう高級住宅地、神楽坂という花街、早稲田大学の前身となる東京専門学校などもあり学生が屯していた牛込。名前を書いてくれ子のる人を見つけるには苦労しない場所といえます。

ではなぜ、名前を与えられることなく捨てられてしまったのか?母親の事情で緊急に捨てる必要があったからではないでしょうか?不義密通の子だとしても、密かに養子に出す算段もとらずに捨てたというのは、世慣れた女のやり口ではないように思えます。

 

捨て子事情を時代背景から考えてみましょう。
鬼殺隊の最終選抜が大正元年だとすれば、この時16歳の善逸の生年は明治28年ということになります。誕生日に決められた9月3日が拾われた日とすれば、少なくともこれ以前には生まれている。受胎時期は明治27年の暮れでしょう。
※藤襲山の手鬼の言葉から善逸たちの最終選別が行われたのが大正元年~3年くらいと想定されるので、対象を元年に絞って逆算してみました。

明治27年月から28年10月にかけては、日清戦争と台湾民主国の独立に対する日本軍の進撃・弾圧という大事件が連続して起こっています。大陸に派遣されていた軍属の妻が不倫で身ごもって子供を出産、予定より早く夫の帰還連絡が来て、慌てて赤子を捨てたというようなこともあるでしょう。

 

明治29~30年生まれの可能性もあるので、地域性からも推測してみます。善逸が桑島師匠と出会う前に知り合った女性たちは、大店のお嬢様や茶屋の娘、半玉(東京での舞妓の呼称)などです。こんなところが、比較的自由に動き回れた牛込の娘たちだったでしょう。

例えば、半玉の場合を考えてみましょう。東京の超一流花街といえば新橋・赤坂・柳橋といったところで、政・財界の大物たちが訪れていたといいます。神楽坂は地域がら、文人墨客が訪れ、学生や書生と出会う可能性もあったでょう。貧しい書生に恋して身ごもり、駆け落ちの約束をした半玉がいたとして、書生が怖気づいて逃げてしまった。捨てられた半玉の方は旦那(パトロン)になろうと申し出るお大尽が出てきて、水揚げの日も決まった。半玉は三味線・長唄・舞などの稽古ごとに費用がかかりますし、水揚げには櫛・簪・衣装や挨拶の品などの用意に数千万円(現代の金額)が必要。水揚げして芸妓になっても、芸や外見を磨き続けるには莫大な費用がかかり続けます。だから、旦那の地位や財力で自分の将来も変わってきます。水揚げとは旦那に処女を捧げることですから、「人に気づかれないように隠れて生んだ子供を即始末して誤魔化す」必要に迫られる。そうなると、おくるみに名も入れず捨てる緊急性も出てくるでしょう。

 

いずれにしても、捨てられた子には実の親も本名も生まれた日も分からない。それは、自分の根っこに確証が持てない、とてつもなく不安な存在です。
いらない子供、必要ない子どもという意識が拭い去れない。捨てられる不安は常につきまとう。
「名前すらない捨て子」という現実を押し込めないと育っていけない、不安や懐疑が子どもの心を痛めつけるでしょう。

捨てらる不安にさいなまれる子供は、捨てられないため過度に懐いたり、2度と捨てられないように、傷つかないために孤独の壁をつくったりすることになります。

 

善逸は他人に過度になついたり、妙に冷めて皮肉な態度を取ったり、行動に矛盾が多いですが、根底にある捨てられる不安を考えると納得できます。

 

善逸の生い立ちを考えてみる

次に成育過程を考えてみましょう。大正時代も、捨て子を見つけたら速やかに自治体に報告する形となっていたようです。乳飲み子は乳の出る女性を必要としますから、捨て子を監督する自治体は里親制度を活用していたといいます。


善逸は「まろびでる」などという、尋常小学校(当時の4年制義務教育)の学習レベルではとても考えられないような、古語を流ちょうに使ったりしています。ということは、成長期のいずれかの時点で教養ある人と時間を過ごしていたことが察せられます。

例えば、子どもがなかなか生まれない、比較的裕福な夫婦に引き取られたとします。この場合、我妻善逸という立派な名前も古典教養も納得できます。でも、後から夫婦に長男が生まれたとしたら、善逸は邪魔者になってしまいます。そうなると、就学期間であればまた里子に出されるでしょう。

牛込は酪農家が多くあったといいますから、このような家に働き手として引き取られていたら、里子として、きつい家庭内労働を強いられたかもしれません。

那田蜘蛛山編で追い詰められた時、善逸は「畑を耕します 一反でも二反でも耕して見せる!!悪夢から覚めてくれぇ───っ!!」と叫びます(第32話)。ということは、農業の過酷さを知って、そこから逃げ出したことがある。改心するから悪夢のような現実から救って欲しいという意味とも受け取れるわけです。

怠け者の善逸ですから、つらい農家から逃げ出して引き取り先を渡り歩いていたことも考えられます。

 

なんとか尋常小学校を卒業したとして、特別に聡明でもない少年を高等小学校や旧制中学校に進学させてくれる里親がいるわけもありません。10歳ほどで、若年労働が開始していたはずです。
立志の意欲がある少年なら省庁の養成機関や上級学校に給仕として入り、薄給で働きながら勉学を続けるという茨の道もありましたが、善逸には考えられない選択です。

大店の小僧や家内工場の使い走りなどになり、辛くなると逃げ出すという挫折を繰り返しながら、職を転々としていた姿が思い浮かびます。

 

親のいない俺は、誰からも期待されない。
誰も、俺が何かを掴んだり、何かを成し遂げる未来を夢見てはくれない。
誰かの役に立ったり、一生に一人でいいから、誰かを守りぬいて、幸せにするささやかな未来ですら、誰も望んではくれない。
一度失敗して、泣いたり、逃げたりすると、あぁコイツは駄目だって離れていく。

第34話の回想シーンの善逸のモノローグはいらない、必要とされない子供だった善逸の孤独と不安、愛された経験のない子供のどうしようもない自信の欠如がビシビシに響いています。

 

そして、孤独な子供は一度掴んだ愛情を放したくはないのです。桑島師匠は、ただ一人自分に愛情をかけてくれた、ダメな善逸を見捨てなかった人です。
死ぬほど怖いのに鬼殺隊入隊したのも、師匠の期待に沿うため、愛情に応えるため、ということは師匠に愛されつづけるために善逸がとった行動と考えられます。

桑島師匠の人間性を考えると、入隊できなくても善逸を見捨てることはなかったと...。むしろ、善逸の側に愛され続ける自信がなかったのでしょう。捨て子の価値観には無償の愛を与えられることなどあり得ないのです。

だから彼は鬼殺の隊士になるという無理な努力をし続けたのだと思います。

 

善逸はどうしようもない女好きだったのか?

善逸は桑島師匠の元で1年ほど修行をしていたということです。ですから、師匠に拾われたのは15歳の時。それまでに、多分13~14歳くらいの間に7人の女性と付き合って、奴隷のようにこき使われ貢がされて手も握らせてもらえず、60万円ほど(現在に換算)の借金を肩代わりさせられたところを師匠に救われて弟子入りします。

聴力にすぐれた善逸は音だけで鬼を感知する能力があります。だから、相手が善意か悪意か音で聞き分けていたはず。「俺は人によく騙された 俺は自分が 信じたいと思う人をいつも信じた(第26話)」と言う善逸。彼は信じたかったから女性たちを信じた。

信じた結果として裏切られ続け、「一時期女の子が怖くてたまらなくなったこともあった(『ファンブック弐』)」ようです。

では、善逸はそこまでして何を信じたかったのでしょう?

 

修行中は師匠が投げ縄の達人だったので善逸は逃げ出せなかったと語られています(『ファンブック 壱』)。だから、男ばかりの生活で女性関連の話題はありません。

 

善逸は道端で初対面の女性に、「いつ死ぬか分からないんだ俺は!だから結婚して欲しいというわけで!頼むよォ――――ッ」と、ヘバリついているところを炭治郎にみつかり、取り押さえられて親しくなります(第19話)。その縋りっぷりは、求婚してるというより「お母さん捨てないで」と叫ぶ子どものようなヘタレ感
ここから善逸の女好き伝説が始まるのですが、「俺はな ものすごく弱いんだぜ 舐めるなよ 俺が結婚できるまでお前は俺を守れよな」と絡んだ後に、善逸は炭治郎にもしがみついています(第20話)。初任務の鼓屋敷で鬼に遭遇した時は気絶してしまい、一緒にいた年下の正一君に助けられたと思い込み、正一君にも取りすがっています(第23話)。

このように見てくると、初任務の恐怖とプレッシャーに耐えかねた善逸は、誰でもいいから傍にいて助けて欲しかった、縋りつきたかったのだなと解釈できます。その相手が女の子だと結婚という表現になるという感じです。

 

隊士になってからであれば、初任給が20万円ほど(現在に換算)。女遊びをしようと思えばできる経済力ですが、善逸が遊ぼうとしている描写はありません。遊郭に潜入した時も遊女に色目を使うわけでもなく、「アタイ絶対吉原一の花魁になる!!」と、三味線の稽古に夢中になるという特異な情熱を燃やすばかりでした(第72話)。

蝶屋敷の女の子たちにデレることはあったけれども、出会いを求める姿勢は受け身。むしろ、「泣きたくなるような優しい音がする(第26話)」炭治郎になつき、ケンカ友達のような伊之助に囲まれ、言葉を交わすこともできない禰豆子にひとめ惚れ、彼女を守っているだけで、十分満足しているように見えます。

 

ばかモテしたいならモテ男宇随天元のノウハウを盗めばいいのですが、善逸はそんな努力もしていません。
善逸は、いわゆる女好きには括れなそうです
捨てられる不安に苛まれる子供の過度の愛着だったとも考えられるのではないでしょうか?

 

蝶屋敷での言動など観察すると、善逸はやさしく柔らかいから女の子が好き。やさしい愛情で包まれたい、守ってもらえる居場所が欲しい。

家族が欲しい。お母さんが欲しい。13歳を過ぎた少年が「このうちの子にして」とは言えない。だから、やさしそうな女の子には求婚する、ということではないでしょうか?

 

善逸は、掛値のない愛情、家族の愛情を求めていた。彼はそんな愛情を信じたかったのでしょう。

 

真っ暗な無意識領域と闇善逸とは

善逸の子供時代は、顕在意識に浮かび上がる記憶から推測するだけでも悲惨なもの。
無意識領域に蠢くものは、どれほどのものなのでしょうか?墨汁を流し込んで消し去り、剪定ばさみで刈り込んで削除してしまわなければならないほど恐ろしい、もしくはおぞましいもののようです。

『鬼滅の刃』には壮絶な子供時代が他にも描かれています。蛇柱の伊黒小芭内は、鬼の生贄として座敷牢の中で育てられ、12歳の時には蛇鬼に口の両端を切り裂かれています。善逸と同期の隊士、栗花落カナヲは極貧家庭の暴力的な虐待とネグレクトの下で育ち、人買いに売られたところを運よく蝶屋敷の胡蝶姉妹に救出されました。2人とも子供時代が屈折した性格形成に根深い影を落としていますが、自分たちの過去を忘れ、消し去ろうとはしていません。

 

一方、顕在意識における善逸は、お人好しで人懐っこく、臆病だけれど、まるで甘やかされて育った子供のように天真爛漫といえるほど感情丸出しで生きています。

その代わり、過去に潜むネガティヴな経験や感情は暗闇の底に押し込んでしまっているのです。多分、善逸が経験した幼少時の悲惨は小芭内やカナヲの体験をはるかに超える残酷なものだったのではないかと察します。

 

これは、真っ黒な無意識領域に潜む闇善逸の存在から推察したものです。

善逸は闇善逸の存在に気づいていないけれども、闇善逸は善逸の経験を把握し、禰豆子のことも知っています。
何で男なんかが入り込んでやがる クッソ害虫が」という言葉から、男性に対する強い憎悪が感じらます。「ここに入ってきていいのは禰豆子ちゃんだけなんだよ」という言葉からは、自分を裏切った女性たちという存在を彼が受け入れているわけではないことも察せられます。嘘をつくことがない、鬼になっても人を喰わない、炭治郎と同じようにやさしい禰豆子という存在だけを受け入れていることも分かります。闇善逸は、不信と憎悪の塊りです。捨て子である自分を侮り、嘲り、いじめ、虐げた人々への恨みに凝り固まっているのです。

闇善逸とは、何なのでしょう?

 

善逸と解離性同一性障害

闇善逸は、本人が耐えられない状況から善逸を守るために生まれた交代人格。解離性同一性障害の症状であるというのが、現代医学から見た適切な答えでしょう。

かつては多重人格と言われた解離性同一性障害は、幼児期から児童期に受けた強い精神的ストレスに引き起こされる心因性障害です。
愛情深い里親や兄弟、奉公先でなければ、虐待やネグレクトやいじめは当然あったでしょう。蝶屋敷でのリハビリの時、隠れて饅頭を盗み食いしたり(第50話挿話)というお笑いネタ系エピソードなども、子供時代に十分に食事を与えられず人目を忍んで盗み食いが常習になっていたのかと、悲しいバックグラウンドを思わせもします。

 

「ことろことろ」や「花いちもんめ」などの古い童謡の歌詞をよく考えると、鬼の他に人攫いが示唆されているのがわかります。人攫いや人買いが当たり前にまかり通っていた日本。里親の元や奉公先を逃げ出して、宵闇をさ迷う子どもは悪人の格好な餌食。陰惨な犯罪を目撃したり、巻き込まれたり、手先にされたり、被害者になったりすることもあり得ます。

ひとりぼっちで助けてくれる人、頼れる人がいない善逸が「もうダメ、死ぬ死ぬ」と追い詰められた時、その意識を好戦的な交代人格が乗っ取って、残酷な現実に対処していた、それが闇善逸だと考えるのが適切でしょう。本人の体格では考えられないような腕力を持つ交代人格というのもあるのです。

 

本来の善逸人格を乗っ取って危機的状況に対処する闇善逸。善逸を守るために闇善逸は人を殺めているかもしれない。あらゆるネガティヴな経験や状況を善逸に代わって引き受け、その記憶や感情を刈り込み、真っ黒に塗りこめて善逸を守っているのです

 

極限の恐怖とプレッシャーに襲われた善逸が眠ってしまった時、見事な霹靂一閃で鬼を倒しているのは闇善逸あらゆる負を闇善逸が引き受けて無意識の闇に封じ込めてしまうので、第1人格の善逸はいつまでも無邪気な子供のままでいられる。そういうことではないでしょうか。

 

※アニメの夢の中では、善逸が禰豆子をおんぶしたり、無意識領域で「禰豆子ちゃんはどこだ~~」とヘン顔で侵入者を追いかけまわしたりするシーンが追加されていますが、アタシとしては違和感を覚えるのです。夢の中でもストレートに男の力を誇示したり、独占欲を露わにできる無意識領域の自我があれば、真っ暗な無意識領域で自分を守る闇善逸は必要ないはずと考えるからです。追加シーンは蛇足に見えます。

 

闇善逸は善逸に統合されたのか?

兄弟子の獪岳が鬼になった責任を取り桑島師匠が切腹したと知って、義務から逃げてばかりいた善逸が、師匠の無念を晴らすために獪岳を自分が討たなければならないという責務に目覚めます(第136話)。

そして、無限城での一騎打ち。愛する師匠を切腹へと追い込んだ獪岳への怒りと恨みを露わにした善逸は初めて覚醒状態で戦い、「ごめん 兄貴」と言いながら自ら考案した強烈な斬撃「火雷神」で、獪岳を倒します(第144話)。

もはや意識を飛ばして、闇善逸に代わらなくても戦うことができたのです。深い怒りで闇善逸が本来の善逸に降臨したのでしょうか?

 

どんな時もアンタからは不満の音がしてた 心の中の幸せを入れる箱に穴が開いてるんだ どんどん幸せが零れていく その穴に早く気づいて塞がなきゃ 満たされることはない」という、善逸の秀逸な幸福論が語られるのもこのシーンです。

ただ怒りに任せたわけではない、戦う相手を思いやるセリフの数々。それは、善逸ならではのやさしさ。なのですが、闇善逸があらゆるネガティヴな体験を引き受けて、闇の底に葬ってくれなかったら、善逸も獪岳になってしまっていたかもしれない。闇善逸がいるから、善逸の幸せの箱は欠け始めても塞がれて、禰豆子の愛らしさや炭治郎のやさしさや伊之助のどんぐりなんていう、キラキラしたステキで満タンになることができた。と思うと、善逸の剣士としての成功も獪岳の闇落ちも、違いは紙一重に過ぎない、やるせないものになります。

 

闘いの中でも、このやさしさを保てたということは、闇善逸は本来の善逸に統合されたのでしょうか?

 

獪岳の首を斬ったものの、自分も全身に怪我を負った善逸は元のヘタレに戻ってしまい、「いたいいたいいたい おんぶして おんぶ いたあい いたいぃぃ おんぶぅ」と一般隊士の村田を駄々って甘えて困らせます(第170話)。

それでも最終決戦では、殺されかけた炭治郎に加勢してラスボスである鬼舞辻無惨に脚が潰れても霹靂一閃を出し続けます(第197話)。

鬼化した炭治郎が禰豆子を襲うと、「炭治郎やめろーっ!!禰豆子ちゃんだぞ 元に戻ってる 人間に戻ってる こんなことしたら死んじゃうよ!!お兄ちゃんて呼んでるだろ!!」と、身を挺して止めに入ります(第202話)。

追い詰められた状況では、本来の善逸のやさしさと闇善逸の力強さが統合されて、見事に成熟した人格が見えてきます

 

とはいえ
鬼との戦いが終わり、炭治郎兄妹や伊之助と暮らすようになり、善逸が禰豆子に示したのは、駄々っ子のような幼稚で我がままな甘えっぷり。とても、結婚を考えて交際できる相手には見えません(『ファンブック 弐』より『炭治郎の近況報告書』)。

 

闇善逸と善逸本人が統合されていたのは最終決戦の短い間だけ、結局、臆病で怠け者の第1人格だけが残ったというように見えるのです。

 

善逸の闇はどこへ行ったのか?

鬼がいなくなり、善逸に炭治郎たちという安定した家族ができて外的脅威が軽減され、闇善逸は無意識領域の闇の中でいつもどおり冬眠してしいまったようなエンディング。

なんでだろう?と考えます。たった一人の爺ちゃんを切腹させることになった獪岳への激しい憎しみ、兄弟子獪岳を憎むという感情が芽生えたことへの怖れ、鬼への仇討とはいえ自分の手で獪岳を殺したこと、獪岳を救えなかったことへの悔み。忘れてしまいたいネガティヴな感情は、亡くなった爺ちゃんが「お前は儂の誇りじゃ」と褒めてくれた言葉(第145話)でも埋まり切りはしないでしょう。

やっぱり、闇善逸がそれらの感情を引き受けて、闇の中に埋めてしまうしかない。闇善逸は闇の中で次の出番まで休息し続けている。だから、善逸はもとの無垢な善逸に戻ることができたのではないかと思うのです。

 

現在の治療でも、日常生活に支障がなければ乖離した人格をあえて統合する必要はないと判断されています。

ただ善逸が抑圧しなければならなかったネガティブな経験や感情は、無意識領域にそのまま堆積しています。

 

物語が終わった約10年後、炭治郎が痣の影響で亡くなる頃には関東大震災があり、その3年後には昭和大恐慌に見舞い、さらに8年後には大東亜戦争から太平洋戦争という苦難が次々と待ち構えています。

まさに、人こそが鬼である残酷な世界に対峙した時、善逸の抱える闇と闇善逸はどう反応したのでしょうか?とても気になる、読んでみたい題材です。

 

ただ、そんな話は現代編の長閑な光景と合致しませんし、少年漫画特有の明瞭な善悪という概念を超えてしまい、萩尾望都的心理ホラーの領域に踏み込んでしまうので、実現はしないでしょう。

とはいえ、『鬼滅の刃(2016年第11号~2020年第24号連載)』に次ぐ『少年ジャンプ』からの大ヒット作『呪術廻戦(2018年14号から連載中)』が、「社会的枠組みで決定される善悪という相対的な概念」「人間とは人間ならざる者の境界はどこにあるのか?」という領域に踏み込んできている今日この頃、善逸の無意識世界と闇善逸の行方をぜひ読みたい!と願う視聴者・読者のアタシ。

少し、残念な気がします。