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『遊郭編』アニメ放送から配信も落ち着いてきて、何を今さらって時期ですが、やっぱり宇髄天元沼の住民としては、この男を語りつくしたい!「柱最弱」なんて議論が今でも続く以上、そんな解釈は方向違いだって叫びたいわけです。だから、クソでかな推し愛を抱えつつ、深読みしまくってみますかと。ネタバレあり
- 闇を抱える傾奇者の系譜
- 宇随の闇は忍の生い立ちにある
- 祭りの神の傍若無人はどこからきたのか?
- 「生きてるやつが勝ち」と、本当は誰に言いたかったのか?
- 命の順番、天元は本当に3番目なのか?
- 「子守唄でも歌ってやれ」というやさしさ
- 才能がない?天元は最弱なのか?
- 「俺は煉獄のようにはできねぇ」の意味
- つらいね、天元。彼はヘッドハンティング
- 余裕で勝つわボケ雑魚が!強がりの真骨頂
- 竃門炭次郎お前に感謝する!!
- 譜面が完成した 勝ちに行くぞォオ!!!
- 宇髄天元は生き残らなければならない
闇を抱える傾奇者の系譜
派手柱こと音柱の宇髄天元、初見だとイケメン・高身長・恵体の超高スペック、オラオラ系俺様。
「俺は派手で華やかな色男だし(女房3人いて)当然だろ」なんて言いきるウルトラ自信家。非モテ系の我妻善逸や妓夫太郎の妬みを買う超リア充。
でも、漫画やアニメでの見てくれだけとれば、炎柱煉獄杏寿郎や恋柱甘露寺蜜璃の方が全然派手なわけです。とはいえ、実物を再現しようとすると、輝石のついた額当てやらイヤーカフやら黄金の二の腕バングルやら巨大な二振りの日輪刀やら、爪紅やら、やたらキラキラ派手!派手っていうかゴージャス。
派手っていうか傾奇(かぶい)てる。そう、宇随天元は傾奇者(かぶきもの)なのです。
傾奇者というのは戦国時代に生まれた人種で、奇抜な格好をして規制の秩序に反抗する乱暴者であったり、しゃれ者だったりし、その美学は歌舞伎へと受け継がれていった者たちです。
世界の文化史やポップカルチャーに眼を向けても、いろんな時代に傾奇者たちは散らばっています。その中でも、闇を表現する傾奇者たちがアタシの好物でして。
フランス詩だと『悪の華』のボードレールとか『地獄の一季節』のランボーとか。
ロック野郎どもなんかでも「何でも黒く塗りたくっちまえ」なんて歌いながら煌びやかな衣装をキメてた初期ローリング・ストーンズ、「これが終焉だぞ」の蜥蜴の王様ジム・モリスソン、「ロックンロールの自殺者」ジギー・スターダストこと初期のデヴィッド・ボウイ、「虐待した奴がいる、虐待されたい奴がいる」のアニー・レノックス、彼女の精神を継ぐ三部作時代のマリリン・マンソンなんかも、闇を表現する傾奇者。
bling(金ピカ)で俺様な傾奇者といえば、ラッパーの皆さまも外せません。剛直な東海岸ビートに載せてゲットーのリアルを実況し続けた「地獄は暗くて熱い」のDMX。名前からして闇の男Xなんて圧巻でした。
宇随は衣装のキラキラっぷりとか、なんか一世代前のラッパーっぽいですね。『遊郭編』のOPで3人の妻を従えて登場するとこなんてpimp(遊び人)感満載で、スヌープ・ドッグのジャケ写みたい。
スヌープまで入れると大脱線ですが、宇随天元の在り方って一見ただの俺様だけど、実は闇を抱えた傾奇者そのもの。アタシ的には性癖のド真ん中なわけです。
内に抱えた闇と傾奇者の相性がなんでいいかっていうと~~
やっぱ人生で失意のどん底這いまわってると、やってられねえ!ってなるわけです。自殺する代わりに、そのダークネス自体を力にしてアグレッシヴに立ち上がろうとすると、破れかぶれで狂うしかない。前向きに狂ってくと奇天烈な生き様がシックリくるって感じですね。
なんで、アタシは宇髄天元の闇を掘りたいと思います!
宇随の闇は忍の生い立ちにある
忍っていうと、戦国くらいから江戸時代にかけて大名に仕えて敵国に侵入、破壊工作や諜報活動、暗殺などを生業とする人々であったといわれています。闇に潜んで、名もなく仕事をし消えていく捨て駒のイメージでしょうか?
とはいえ、忍びの地位が全般的に低かったわけではなく、上忍・中忍・下忍の階級があり、侍としての処遇を受ける者たちもいたのです。忍集団を束ねる頭領は名家ともなり、フィクションの世界では、徳川家の重鎮だった服部半蔵、大名の柳生但馬守宗矩なども忍の頭領として登場したりしています。
天元は忍の里長の嫡男。198cmの見事な体躯をみても、豊富な栄養を与えられて育ったと考えられます。また、少年時代から輝石入りの額飾りをつけているところなどからも、経済的に豊かな忍の旧家の出身と判断するのが順当ですかと。
如何に部下を支配するかという忍びなりの帝王学も習得、次期頭領としての矜持も持つ少年に育っていたでしょう。
ところが、明治になって大名制度はなくなり、忍は衰退。一族存亡の危機に直面した天元の父親は、「一族が衰退していく焦りから」「取り憑かれたように厳しい訓練を」我が子に課し、9人いた姉弟のうち3人は10歳を迎え前に亡くなります。
天元は元服の15歳で、優秀な子孫を確実に残すため3人の嫁をめとらされます。
その後~~
"生き残った残った兄弟6人は父親の策略により、修行という名目で覆面で頭と顔を隠し、殺し合いをさせられる。
弟2人を殺したところで天元は事態に気づき、同じく生き残った2つ下の弟に伝えますが、彼は兄弟を殺したことをなんとも思わず、正体が分かった天元にも刃を向けてきたのです。
弟と戦うことなく、嫁3人を連れて里を抜けた天元。その後も近親殺しの己が罪に絶望し「自分は地獄に落ちる」というのが、嫁たちに叱られ、泣かれ、噛みつかれるまで口癖になっていたようです。
その後もずっと「自分が宇随一族を滅ぼすべきだったのでは」と悩み続け、それでも父と弟を殺すことはできなかったといいます(「ファンブック2」より)"
※「ファンブック2」の正式名称は『鬼滅の刃公式ファンブック 鬼殺隊見聞録・弐』
派手の神を自称する威勢のいい姿の裏には、親族殺人という凄惨な過去と我が手で我が一族を滅札すべきという懊悩を抱えていた天元。なんとも深いトラウマと闇を抱えた男だったのです。
鬼殺隊員たちは、ほとんどがトラウマな過去持ちですね。でも、それは鬼に家族を殺され運命を狂わされたという、責めるべき対象、復讐すべき鬼を滅殺することで浄化できるトラウマです。
天元は自らの手で親族を殺した。まず、責められるべきは自分。その悪しき元凶も親族であり、元凶を殺せる非情さが天元にはない。復讐がかなわないのも自分のせい。
どちらに転んでも自分を責めるしかない男。そんな苦しさと闇が派手柱の原点。
『遊郭編』での天元の言動から、その闇と苦悩を読み解いていきますかと...
祭りの神の傍若無人はどこからきたのか?
遊郭で遊女として潜入捜査していた3人の女房たちから連絡が途絶え、蝶屋敷から神崎アオイと高田なほをさらなる捜査員として連れ去ろうとしたところを、かまぼこ隊の竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助に阻まれた天元。
「俺は元忍の宇髄天元様だぞ。その界隈では派手に名を馳せた男」
と、自己紹介。15歳で抜け忍となっているわけですが、その時点で既に忍として名を馳せていた。ということは、名前を売れるだけの名家の出身であること。15歳で既に優秀な間諜、暗殺者、破壊工作員であったということですね。
つまり、天元は立派な人殺し。親族殺しで罪に目覚めた殺人者だったと解釈するのが適切でしょう。
娘たちと誘拐同然で任務に駆り出すことに反対する炭治郎を「ぬるいぬるいねえ」と、揶揄する天元。第1話放送後、批判する視聴者も多かった振舞ですが、ここにも天元の原点は見て取れます。一般人の感覚からすると、年端もいかない少女たちを遊郭での任務に当たらせるなど道徳に反する行為です。
が、天元は忍。命令を下されたら自分を捨て駒として貞操をかけ、生命に替えても全うするの当たり前という教育が身についている。妻たちも天元の命には、喜んで従う関係です。人を駒あつかいする父の非情さを心底憎んで逃げ出しても、身に沁み込んだ習慣はなかなか抜けない。特に、愛妻たちが行方不明という危機的状況で追い詰められると、一般人の感覚を忘れて命令絶対の価値観に支配されてしまう。
このシーンに、天元の育ちからくる習性を見て、悲しさを感じてしまうアタシでした。
そして、アオイたちに代わって潜入捜査を買って出たかまぼこ隊に命じます。
「いいか?俺は神だ!お前らは塵(ごみ)だ!...俺が犬になれと言ったら犬になり、猿になれと言ったら猿になれ!猫背で揉み手をしながら俺の機嫌を常に伺い全身全霊でへつらうのだ」
一見、過激な俺様思想ですね。天元は驕り昂った人間なのか?ストーリーが進行するとそうでないのが分かった来ます。
ということは、天元を悪人扱いし反抗的な態度に陥りそうなかまぼこ隊に先制パンチ、絶対服従を言い渡すことで、強引に頭を押さえた。ということではないでしょうか?
善逸や伊之助に対する拳骨や腹パンもこの流れにあるかと。
絶対服従の忍者集団を率いるにあたっての、帝王学としてのショック療法かなとアタシは考えるわけです。
振り返って鑑みると、天元の行動は傍若無人なわけではなく、忍としての行動理論に基づいたものだったのだと納得してしまいます。
「生きてるやつが勝ち」と、本当は誰に言いたかったのか?
妓楼の京極屋に潜入していた善逸が失踪したことに気づいた天元は、炭治郎と伊之助に言います。
「お前達には悪いことをしたと思ってる。俺は嫁を助けたいがために幾つもの判断を間違えた」
高圧的な俺様に見えていた天元が、非を認めたら目下にも謝罪することができる潔く公正な人物であることが分かる一節。
加えて、炭次郎と伊之助に撤退命令を出し、「消息を絶った者は死んだとみなす。後は、俺一人で動く」と、言いきります。
自分の判断ミスは自分一人でケリをつける。後輩は巻き込まない。そのため、善逸の無事も女房達の命も、自分では何も諦めていのに「死んだとみなす」という言い方をしているのですね。実に高潔で責任感の強い人物です。
指揮官としてはこの命令だけで済むのですが、天元はさらに言葉を繋ぎます。
「恥じるな。生きてるやつが勝ちなんだ。機会を見誤るんじゃない」
上弦の鬼相手と目される危険な任務を一人で背負い、行方不明の部下と妻たちを探す決意をしている男は命をかけています。であるのに、自身の行動とは反する生きる哲学を天元は敢えて語る。
何故か?多分、これは長い間誰かに言いたかった言葉なのではないでしょうか?
そこで、天元の原点となるのトラウマに戻って考えてみます。
忍の里を逃げ出して生き延びたのは天元。逃げることを恥じてとどまり、殺しの儀式に参加して天元と2つ下の弟に殺されてしまったのは、幼い弟たち。10代前半の身体の大きさや強度、技の熟練は恐ろしいほど差があります。15歳の少年と12歳の少年は、大人と子供ほどに違うのです。
15歳で既に忍びとして名を馳せていた天元は殺しの神童だったのでしょう。誰もに可能なことではありません。勝負は最初から決まっていた。多分父にとって弟たちは、人としての情が垣間見られる天元を非情な殺人マシーンとして完成させるための試金石、捨て駒だったかと...
事態がつかめていれば、天元は弟たちに「恥じるな、一緒に逃げよう。機会を見誤るな」と言ってやれたかと。言ってやりたかったでしょう。言えずに殺してしまったから、天元の後悔は消えない。
自死することは、弟たちの命の犠牲を無駄にしてしまうこと。だから、命ある限り生きる努力をする。それ以上に人の命をを守りたい。自分の命が何よりも重いとは思えない。むしろ紙のように軽いという価値観が、天元にはあるのではないでしょうか?
「生きてる奴が勝ち」というセリフは天元の傷の深さを、生き延びる意志への根本的矛盾を示す言葉だと、アタシは解釈しています。そして、この言葉をかけた相手の炭治郎や伊之助に弟たちの面影を重ねて守ろうとしてるのだと。
だから、炭治郎を守るために鬼にタックルできるほど、捨て身で戦えるのだと。
そう読みこむと、実に感動的なセリフです。
命の順番、天元は本当に3番目なのか?
「俺は派手にハッキリと命の順序を決めている。まずはお前ら三人。次に堅気の人間たち。そして俺だ」
救出されたまきおの回想の中で、鬼殺隊入隊を決めた天元が妻たちに告げる。
このセリフから「宇髄天元は愛妻家」と喜ぶ女性たちがいますが、アタシ的にはどうも見当違いな方向性に見えます。愛妻家などという人種は、一度の不倫で掌を返したりする人種。宇髄一家にそんな平和ボケはない、この夫婦はもっとギリギリのところで生きているのだと、夫婦であり、命を預けられる戦友であると思うのです。
弟たちも手にかけた人殺しが、贖罪のために鬼殺を新たな生業とする。妻たちはこれまで同様、命がけで夫をサポートしようとする。だから夫は「お前たちだけは死んでくれるな」というのです。一般市民を救うために自分は命を惜しまないけれども、「お前たちだけは死んでくれるな」と。
自分の生命を犠牲にすることが当たり前と考えてきた妻たちを解放するための心遣いでもあります。情の深い夫です。情の深い男です。
生きたい気持ちを自らに許しながらも、それでも命をかけて夫をサポートするという妻たちの心意気は下の『雛鶴、まきを、須磨という護り手』の項で読みこんでいます。
なんとも壮絶な夫婦愛です。
ところで、命の順番の3番目は自分ということも派手にハッキリと決まっているのでしょうか?どうも違うようです。
炭次郎と伊之助への退避命令から、彼らを体当たり守ることから、かまぼこの命の方が天元にとって順番は上だと分かります。この時点では、3人の妻>>>一般市民>部下>>>>>>>>自分といったところでしょうか?
情の深い天元は、誰かを懐に入れるたびにその命を尊び、自分の命の順番を下げていくのでしょう。なぜなら、かれは贖罪する咎人だから、自分の命は紙のように軽い。
ところが、自分の命を惜しまない天元の誠実さが、妻や部下にも誠実で応えさせるのです。だから、「逃げろ」と言っても妻も部下も留まって共に戦う。
天元はまたとない夫であり、上司だなと思います。
因みに夫一人に嫁3人の宇随一家は、天元のハーレムみたいな解釈されてますが、須磨ちゃんがバイ(「ファンブック2」より)なので、正確にはポリアモリー。ここも、天元の公平な価値観を理解する上で間違ってはいけないポイントだと思っとります。
「子守唄でも歌ってやれ」というやさしさ
炭治郎を守って鬼化が暴走し、人を襲おうとした禰豆子を見た天元が声を掛けます。「おい、戦いはまだ終わってねぇぞ 妹をどうにかしろ、ぐずり出すような馬鹿ガキは戦いの場にいらねぇ 地味に子守唄でも歌ってやれ」
なんとも肝の坐った言葉です。
柱合会議に引き出され、決して人を襲わない、襲ったら炭治郎、水柱の富岡義勇、育手の鱗滝左近次が切腹すること条件に滅殺を免れた禰豆子。その禰豆子が人に襲いかかったのです。
目撃者が鬼を憎む風柱の不死川実弥、蛇の伊黒小芭内であれば問答無用で首を斬り落としたでしょう。義勇であれば、責任から禰豆子を斬り、自刃したでしょう。
幸いなことに目撃者は機転の利く天元だった。禰豆子はまだ人を殺していない。禰豆子を鬼として裁けば、鱗滝、義勇、炭治郎も連座する。常に隊士が足りない鬼殺隊にとって、大きな人的損失です。自分が黙認してお館様に報告しなければ、それで済む。優秀な元忍にはその程度の判断は瞬時だったでしょう。
それ以上に、天元が禰豆子を呼ぶ呼称は「妹」「馬鹿ガキ」であって、鬼ではないことが重要です。
炭治郎と伊之助に逃げろと言った時から、天元にとって彼らは守るべき対象、救えなかった弟たちに代わって守るべき対象となっていたのだと、思います。鬼となっていても、炭治郎の妹である禰豆子も、当然、守るべき子どもになっていたのだと。
なにげなく口にした「子守唄」という示唆が禰豆子を正気に戻し、禰豆子の爆血が妓夫太郎の毒を喰らった天元を、炭治郎を伊之助を救うことになる。
天元はやさしい男だと、一段と感じます。そのやさしさが巡り巡って、彼自身を救っているのだと。
才能がない?天元は最弱なのか?
堕姫が7人、妓夫太郎が15人の柱を喰ってきたという上弦の陸兄妹。飛び血鎌の毒を喰らっても、なかなか倒れず闘気に溢れる天元に業を煮やした妓夫太郎は毒づきます。
「お前は生まれた時から特別な奴だったんだろうなぁ選ばれた才能だなぁ 妬ましいなぁ一刻も早く死んでもらいてぇなぁ」
即座に切り返す天元。
「才能?俺に才能なんてもんがあるように見えるか?俺程度でそう見えるならテメェの人生幸せだな」
この言葉から、天元が柱最弱と短絡的に結論を出す人が多いようです。アタシからすると、この読み方も単純すぎ。
自嘲的ではありますが、これも天元特有の煽り文句。妓夫太郎が物を知らないとからかっているのです。
さらに、才能がある人物として天元が考えたのは、身長220cm体重130㎏という人間離れした体格で、盲目でありながら鬼殺隊一の実力を誇る岩柱の悲鳴嶼行冥。14歳160cmの年少・小柄にも関わらず「刀を握って2月で」柱まで上り詰めた、将来性が青天井の霞柱時透無一郎。まさに例外的な2人です。おまけに、天元は才能を語っているのであって、強さを語っているわけではありません。
ファンの贔屓目もあるでしょうが、柱一の俊足、2番目のパワーを誇る天元が弱いわけはないのです。スピードとパワー、柔軟な筋肉をベースにしたヌンチャク使いのような2刀流と体技で暴れまくり、音の呼吸による特殊な剣技はあまり出さない傾向がある。とはいえ、炭治郎も善逸も単独では切れなかった堕姫の首を、型も使わず秒殺した実力は並ではない。地力だけで、下弦の鬼まではサックリ斬れたのでしょう。
だから、妓夫太郎も「選ばれた才能」と言ったのです。198cm95kgで筋肉もりもりのボディを持つ天元は、それだけでフィジカルエリートです。筋肉というのは分厚い肉の甲冑のようなもの。厚い筋肉に覆われたボディは外的衝撃に強く、怪我もしずらく、刃物で刺されても内臓に届きにくい。NBA選手たちの数々の武勇伝を目にしてきたアタシにはよく分かります。
では、何で天元は「才能なんてない」と言い切ったのでしょうか?
これも、育った環境に起因する低い自己評価だと思います。命じられたことはできて当たり前。できなければ死ぬしかない成育環境。何を成し遂げても褒めてはもらえない。天元が受けていた鍛錬は才能を伸ばすものではなく、当人にとって、唯の命がけのサヴァイヴァルだったかと。
だから、天元は「自分が一番嫌い」な善逸や「俺は柱ではない」と言い続ける義勇のように自己肯定感が低いのです。
さらに重要なのは「才能ない」宣言に続くセリフ。
「俺が選ばれてる?ふざけんじゃねえ
オレの手の平から今までどれだけの命が零れたと思ってんだ」
天元が気にしているのは、どれくらい強いか?どれだけ才能があるか?ということではなく、救えなかった命なのです。
才能ある忍であれば父親の企みを見抜き、弟たちを守れただろう。救えなかった天元には才能なんてものはない。心の底に、この呻吟は常にあるのでしょう。
だから、神と称しながらも天元の自己に対する評価は低い。だから、手のひらに掴んだ命を命がけで守るのだと、一段と思います。
「俺は煉獄のようにはできねぇ」の意味
上の発言から、天元が炎柱の煉獄杏寿郎より弱いと指摘する方々もいます。アタシには、これもまた視野狭窄的な理解に見えます。
確かに、天元は杏寿郎より自分が劣っていると考えているようです。とはいえ、聡い天元が考えているのは生き様の問題であって、強さ弱さという単純なものではないと思います。
天元と杏寿郎は、炭治郎が2人の姿を重ねたようにキャラとして被るところが多いです。正義感と責任感に溢れ、リーダーシップに優れた兄貴肌。かまぼこの進むべき道を実践で示してくれる頼もしい先輩です。
慣れない任務に就くかまぼこ隊を率いて無事に連れ帰れたのは、天元や杏寿郎であったから。水・蛇・風といった単独行動型の先輩柱が率いていたとしたら、任務は空中分解していたでしょう。
とはいえ、天元と杏寿郎を形作った環境は正反対のもの。同じ軸に乗った正反対。identical opposite というべきもの。
杏寿郎は代々鬼殺の柱という誇りある旧家の長男であり、父に何度否定されても家の伝統を受け継ぎ、「強ものは弱いものを助けるために存在する」という母からの使命を守って、分け隔てなく弱者を平等に助けます。杏寿郎は、まさに正義を体現する太陽のような存在です。
対して天元は旧家とはいえ、暗殺や謀を実行する忍の家系の総領息子。罪深い一家の伝統からドロップアウトしたはみ出し者。贖罪のために人助けをする者。万人よりも3人の嫁の命を優先する夫。全き正義には程遠い、グレイゾーンに生きているのが天元。その時々で見え方が変わる月のような存在かと。
正しさを指針とした時、天元は杏寿郎に追いつけない。一生かけても追いつけない。それが「煉獄のようにはできねえ」ということの真意だと考えます。
つらいね、天元。彼はヘッドハンティング
「つらいね 天元 君の選んだ道は 自分を形成する幼少期に植え込まれた価値観を否定しながら 戦いの場に身を置き続けるのは苦しい事だ」
「様々な矛盾や葛藤を抱えながら、君は 君達は それでも前を向き、戦ってくれるんだね。人の命を守るために」
まだ若い天元に、お館様産屋敷耀哉がかけた言葉。ここから、二つの事柄が読み取れます。
一つは、天元がヘッドハンティングだったのではないかということ。
鬼殺隊入隊には、いくつかの手段があると察します。第一には、義勇や善逸、炭治郎のように志のある子供として育手の下で数年かけて修業をし、選抜試験を通ること。または行冥や実弥、無一郎のように入隊前に鬼殺しの実績を上げ、ヘッドハンティングのような形で採用されること。
天元も後者であったと判断します。
というのは~
常に鬼に命を狙われているため、居所を秘匿する必要があるお館様は新参の平隊士の前に姿を現すことはほぼありません。柱合会議のような重要な席のみに登場します。
上のコマの中でお館様が天元にかけた言葉は、明らかに新規加入の隊士に決意のほどを確認するものです。実弥でさえお館様との初顔合わせは柱になる柱合会議の席でした。
ですから、新参でお館様から言葉をかけられている天元は、特例中の特例だったと思います。
天元の場合は十分に戦闘訓練も積んでいる。そこで、見よう見まねで雷の呼吸、全集中の呼吸常駐を覚え、on the jobで基本形が居合である雷の呼吸から自分の二刀流と爆撃に適した音の呼吸を編み出していったのではないかと、察します。
隊員になってからは、持ち前のスピードとパワーで雑魚鬼を殺しまくり、下弦もしとめて柱に駆け上がったと。
鬼殺隊の最下層階級である「癸」の給与は、現在の20万円。嫁3人を養わなくてはならない天元にとっては苦しい給料です。だから、彼は時間をとって修行する余裕はなかった。とにかく階級を上げて稼ぎをよくする必要があったのだと思います。そして、それに見合う実力があったと。
ただ、即席だけに圧巻の伸びしろは少なかったと。
鱗滝左近次の元で修業をし、13歳でかろうじて選抜試験に生き残り、努力と時間をかけて最もメジャーな水の呼吸を完成形に磨き上げ、19歳で柱になった義勇(炭治郎との出会いから逆算)とは、正反対の存在と言えるでしょう。
そして、もう一つ重要なポイントは「つらいね 天元」というお館様の言葉です。
全隊員の生い立ちを記憶しているお館様。忍として生きてきた天元が、法上の犯罪をいくつも犯し、人を殺めてきたことも承知していたでしょう。
それを責めることなく受け入れ、抜け忍となり鬼殺隊士となった葛藤を理解し、ねぎらい、感謝してくれるのです。
自分で自分が許せない天元にとっては、まるで天の救いのような言葉。漫画のコマの中で肩の力を抜き、呆けたように言葉に聞き入る天元、泣きそうな須磨、思いにふけるまきお、思案している雛鶴。それぞれの個性がよく表れているこのシーンには印象深いものがあります。
孤独に悩んできた天元を理解し、支えてくれる人がここにいる。この人のためなら命をかけて忠を貫ける。
「俺の方こそ感謝したい お館様 貴方には」
応える天元には、新たな自信と決意が漲っています。
信頼し合う上司と部下が誕生した、美しい瞬間です。
余裕で勝つわボケ雑魚が!強がりの真骨頂
「いいや全然効いてないね 踊ってやろうか 絶好調で天丼百杯食えるわ派手にな!!」
毒攻撃を受けてしまい、対毒耐性を身に着けているとはいえ弱ってきているのを妓夫太郎に見抜かれてしまった時に切る、天元の啖呵。凄い虚勢。
さらに、妓夫太郎から自分がドンドン毒が回って死に近づいていること、かまぼこのような下級隊士が駆けつけても、天元たちの負けが確定していることを指摘されると、
「余裕で勝つわボケ雑魚が!毒回ってるくらいの足枷あってトントンなんだよ。人間様をなめるんじゃね!!」
天元も妓夫太郎も天性の煽リスト、小気味いいほどの罵詈雑言でお互いを挑発しあいますね。だから、この2人の闘いはギャングスタ同士のストリートファイトみたいで、見てる方もノリノリになれます。見事なトラッシュトークです。
NBAファンのアタシは歴代のトラッシュトーカーを目にしてきました。ラリー・バード、マイケル・ジョーダンとか、ゲーリー・ペイトンとかレジー・ミラーとか。で、気づいたのは、彼らは向こうっ気の強いプレイヤーだけど、同時に妙に冷静な策士でもあったことです。相手を煽ってイラつかせミスを誘う、悪口に対する反応を観察して弱点をみつけようとしてるんだと。
天元も妓夫太郎も泥臭いケンカ剣法みたいに見えてて、実は冷静な状況判断を積み上げてくクレバーさがありますねえ。もう、本当に好きなタイプの戦士です。
中でも「余裕で勝つわ」の方は最悪の状況で後輩たちの士気を鼓舞するために言ってる感もあります。どんなに不利な戦況でも負けを認めた時が負けるとき。最後の瞬間まで負けを認めてはいけない。勝つ気で臨まなくてはいけない。
黒死牟に圧倒され、「役に立って死にたい」と考えた霞柱無一郎は、その通り亡くなってしまいます。自分を死に追いやる覚悟で痣と赫刀を発言させた蛇柱伊黒小芭内も死ぬ。死ぬと思った時が死ぬ時なのです。
だから、死にかけていても勝利宣言する。実戦経験豊富な天元だからできる判断だと、感心します。
さらに、これらの啖呵から天元特有の精神構造、矜持も伺えます。
敵であろうと味方であろうと、天元は弱みを悟らせることはしない。どんなに自己嫌悪に苛まれていても、祭りの神として派手派手に振舞う。死にかけていても勝利宣言する。それが天元の美学です。
だから仲間と語らっても、「自由な感じが羨ましい(義勇)」「兄弟を手にかけたと悔やんでいるが、決して暗い顔をしないので尊敬している(小芭内)」と、とんでもポジティヴに捉えられているのです(ファンブック2より)。
多分、弱さを見せるのは3人の嫁だけではないかと察したりします。
忍は心を悟らせてはいけないという教育も、この人格形成のベースとなっていると考えると、これまた、少し悲しいものがあります。
竃門炭次郎お前に感謝する!!
これは、藤毒クナイランチャーで戦いの援護に入った妻の雛鶴が反対に妓夫太郎に捕まってしまい、これを救った炭治郎に天元が告げた感謝。
これも本当に潔い。これまでの読み込みで天元が公正な人間であるのは分かっているのに、何故、あえてこの感謝に拘るのか?それは、この戦いの動因にかかわるからです。
天元の計画は~~
炭治郎と伊之助を逃し、堕姫が日光を避ける住処を特定した後、夜の間は適宜彼女を泳がせながら妻たちを救出、鬼の力が弱まる夜明け前に急襲するというもの。これが、最も被害を少なくする、効果的な戦略でした。現に、彼は既に切見世で帯鬼に囚われた雛鶴を救助していました。
ところが、血気に逸る炭治郎が夜も浅いうちに堕姫に戦いを挑んでしまった。経験不足な炭治郎は、周囲にいる一般人に気を配る余裕はありません。なので、この炭治郎vs堕姫戦で人が死傷する被害が多く出たのです。
これは、天元の戦略上は大誤算だったでしょう。援護に駆け付けた天元はあっさり堕姫の首を斬り落とす。堕姫の中から出てきた妓夫太郎の毒を喰らい、大変な苦戦となりはしましたが、天元は周囲への注意怠りなく、妓夫太郎とのトラッシュトークで時間を稼ぎ、建物内から一般人を逃すこと、その避難完了を確認してから本格的な戦闘を開始します。
妻を救うことを優先した天元。まきおと須磨を見つけた功労者は勘の鋭い伊之助ではありましたが、彼女たちの活躍で一般人のスムーズな救助・避難活動が行われました。このように見てくると、妻最優先というのも作戦の一環に見えてきます。
この淀みない作戦実行を妨げたのは、炭治郎だったと言っても過言ではないかと。
にもかかわらず、戦闘中に妻を救ってくれたというポジティヴな面のみ捉えて感謝できる。本当に器の大きい男だと思います。
譜面が完成した 勝ちに行くぞォオ!!!
「譜面」とは天元独自の攻撃計算式。戦闘相手の動作を音としてとらえて分析、譜面として再構築して、音と音の合間に自分の攻撃を仕掛けていく。アニメの画面に壱・三・七・五・為・巾の表記が出てくるので、これが箏(琴)の譜面であることが分かります。
左手を失い右手しか使えないのに、譜面が完成した後の天元は片手で妓夫太郎の攻撃をはじききり、圧倒的な強さをみせます。ここでの2人の戦闘シーンはアニメ市場の最高傑作と評価されっていますね。
この後の『無限城編』になると、五感を開き、体の血管1つ1つまで透けて認識できる「透き通る世界」という戦いの境地が登場します。剣士に求められる至高の境地です。
「譜面」は構築に時間がかかるし、「透き通る世界」の下位互換なのではという意見もよく聞きます。
一対一の戦闘では確かにその通りだと思います。
ただ、「譜面」の方が応用度が高いとアタシは分析しています。一対多の戦闘で「透き通る世界」の有効度は著しく下がるはず。「譜面」の方は、オーケストラのスコアのように構築可能なので、一対多でも有効な攻撃の間合いを導き出せます。
また、多対多、多数か所で戦闘が行われている場合も、音の反響による空間全体の把握を加え、オーケストラの要領でどこにどの人材を配置するのが有利かも導き出せるはず。実に応用範囲の広い、一兵卒ではない指揮官向けの戦闘計算式と言えるでしょう。
『遊郭編』でも指揮官としての能力を遺憾なく発揮して、天元は炭治郎に妓夫太郎の首を斬らせます。
忍の頭領となるべく育てられた天元の本領は「譜面」であると納得します。
宇髄天元は生き残らなければならない
天元のやさしさ、漢気と心意気、戦闘能力とリーダーシップ、かまぼこの踏ん張りが絶妙なチームワークを築いて、彼らは上弦の陸である妓夫太郎と堕姫を殲滅。100年ぶりに上弦の鬼を倒すという大快挙を成し遂げます。
天元の思いやりで完全鬼化と処刑の危機から免れた禰豆子により致死性の毒も解除されて、嫁も鬼殺隊のメンバーも全員生存。これが、天元にとっては一番うれしいことだったでしょう。左目と左手を失っても、手のひらに掴んだ命を取り零すことはなかった。これこそが、天元にとっての勲章だったでしょう。
だから、「上弦の鬼を倒したら」という雛鶴たちの願いに沿って潔く引退を決意する。ネチネチと嫌味タップリに残留を請う小芭内に向けて、引退宣言をする。
この時の天元は晴れ晴れとしていますね。父の策略を見抜けなかった両目の半分と、弟たちを殺した両手の片方を失って、ある意味吹っ切れたのでは、贖罪の人生に一つの区切りをつけられたのではと深読みいたしました。
『遊郭編』が終わって時間が経ち、「柱稽古」やっと再登場する天元。基礎体力づくりの修行にきた炭治郎を迎える天元の笑顔が初めてみるように温かく穏やかで、幸福そうなのを見てジ~~ンときてしまうファンです。
とはいえ、天元の贖罪は一区切りついただけ。人殺しのカルマが総て浄化されているわけではありません。だから天元は生き残らなければならない。
吾峠呼世晴という人は、なかなかに残酷な作家です。無限城戦で鬼の首領である鬼舞辻無惨を倒してこの世を去り、彼岸の家族たちと再会、もしくは来世の夢に昇華していけるのは、この世のカルマをこの戦いで落としきれた柱たちのみ。
辛い罪業を抱える2人の柱と一人の元柱は、身体欠損の上に生き残らねばならなかったのです。
無事に生き延びて欲しいという思いを伝えることができなかったために、弟の玄弥に無理を続けさせ、戦死させてしまった実弥。本当は親友の錆兎が選抜試験を生き残り柱となるべきだった、錆兎であれば仲間をこんなに死なせなかったであろうと考えているに違いない義勇。そして、罪人である天元は生き残り、苦しまねばならなかったと。
命を前借して剣士としてのパワーを増す痣を出現させて義勇と実弥が生きられるのは25歳まで。天元の寿命はもっと長い。
3人の嫁と我が子らとともに、義勇を看取り、実弥の骨を拾い、炭治郎の荼毘に付し、多分残された家族たちの面倒を何くれとみて、天元は生きてい行く。掌に抱えた命を慈しみ、縁ある人々に尽くして。
「生き残ったものが勝ち」と言いながら、遠い戦いの日々を思い起こし、たった一人の柱となって逝ってしまった仲間を思いを馳せ、置いていかれた身として老いていく。
幸福でありながら、寂しい、贖罪を続ける余生。それが天元には相応しい。
だから天元は生き残れなければならないのだと、つくづく思うファンで