エンタメ 千一夜物語

もの好きビルコンティが大好きな海外ドラマやバレエ、マンガ・アニメとエンタメもろもろ、ゴシップ話も交えて一人語り・・・

七海建人考 内省するモラリストよ南へ戻ろう

©芥見下々/集英社・呪術廻戦製作委員会

すっごい七海ロスです。呪術廻戦第2期19話『理非』で亡くなることは分かってました。分かってても辛い。大人of大人として慕われてきたキャラの七海ですが、大人って何?っていう疑問も含め死後の平安を祈って読み込んでみますかと。ネタバレありあり

※表記内容を正確なものにするため、引用はコミックスから行っています。

 

 

七海って刺さるんです。

暇潰しのアマプラで、学園バトルホラーなのと軽い気持ちで流し見していた『呪術廻戦』のアニメ第1期。

なんですけど、突然ブッ刺さる台詞が流れてくるんですよね。例えば七海の言葉…

「枕元の 抜け毛が 増えていたり 
「お気に入りの 惣菜パンが コンビニから 姿を消したり」

「そういう 小さな絶望の 積み重ねが 人を大人に するのです」

年喰ってる自分としては、アイタッタタ、その通りなんです。
高校生くらいまでは無分別な全能感みたいなのがあって、この同級生アホかい、大人なんてバカじゃん、アタシはデキる奴だから世の中なんてチョロイぜ、などなど思っていたりするわけです。ついでに、自分は神童だから20歳まで生きるわけもないし、将来なんて悩まねえよ!なんて、意味不明な全能感でイキッてたりしたわけです。
それががね、ままならぬ世を知り、些細な挫折が積み重なる割にちっとも死にそうもないし、死にたくもないヘタレの己という自覚も生まれ…。
まさに、小さな絶望の積み重ねで己の無知と無力を知り、無知で無力な我々というものを受け入れながら大人になってきたのですね。
だから、この言葉が骨を削るように刺さってきたのです。で、七海の言動を注意深く読み込むようになったのですね。

 

七海とキェルケゴール

七海って、母方のお祖父さんがデンマーク人のクォーターです(単行本第3巻より)。
デンマーク人気質って、真面目でルール&時間厳守、クールで論理・合理性を尊ぶけれどもフレンドリーでグルメ傾向なんて出てきます。

フレンドリーを情が強く厚いに置き換えたら、ザ・七海って感じです。

 

もう一歩突っ込んで「デンマークと絶望」という単語を並べると、「"死に至る病"とは絶望のことであると宣ったデンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールが頭に浮かびますね。
キェルケゴールは絶望自体を解析して、信仰によってのみ乗り越えられるものと思索し続け、七海は絶望の意味合いを感覚的に納得して、必然的に経験するものとして受容し行動する。常に残酷な死と向き合っている七海ですから、絶望に対してプラグマティックに処するのは当然。
でも、方向性は異なりますが絶望を基点として人生に処していくのは同じキェルケゴールも七海も観察し内省する人っていうのは、共通しています。


批判的観察者の手厳しさ

内省ってのは、自分の感情、考えや行動を顧みて考察すること。自分を考察するって、自分に甘いとできません。自分に対する客観性や批判精神がないとできないことです。
てことは、周囲に対しても客観的・批判的観察を行う能力も伴います。

批判的観察・批判的考察ってのは七海の第1の特徴。初登場シーンからもいかんなく発揮されています。

七海の初登場は『幼魚と逆罰』の原作第19巻。
宿儺の指を取り込んだ主人公虎杖悠仁の暗殺意図が呪術界上層部にあることを察した担任の五条悟が、死んだことになっている虎杖を秘密裏に呪術師としてパワーアップさせる。そのOTJトレーニングの引率役として五条が呼んだ頼りになる後輩が七海でした。
変人の多い呪術師の中でも脱サラの出戻りであるからしっかりしていると五条から紹介されると、すかさず「あなたには言われたくない」と誉め言葉を却下、初対面なのにラフな応対の虎杖に、まず挨拶が必要であることを指摘します。
その上で出戻った理由を

「私が高専で学び 気づいたことは 呪術師はクソということです
 そして 一般企業で働き 気づいたことは 労働はクソということです」
と、語ります。厳しいご意見です。
呪術界も一般企業も労働者を果てしなく消費する世界。安い給料で使い倒される労働がクソだと思わなかった人はいないでしょう。クソ発言はあまりにも核心をついてます
呪術師は自分の生命を賭けて労働してますが、一般の労働だって自分の時間を売っている。つまり生命を売ってることなわけです。どっちもクソですよ。
でも、普通は口に出さない意見です。これを言ったら、自分も同僚も上司も資本家も、全部批判し貶めることになってしまう。だから、思ってても口に出さないのが日本人。資本家の側に回ろうとするのが欧米人ってとこでしょうか。

そういう事実を、まるで格言のように宣言するのが七海です。人間を観察して生きる教訓を短い文章で格言のように著述する文人たちをモラリストって言います
そう、七海ってモラリストなんです。
だからって、上から見下してるわけではない。

「同じクソなら より 適正のある方を 出戻った 理由なんて そんなもんです」
手厳しい批判精神を自分に向けて自嘲的に締めくくる。自分自身と自分が置かれた状況を客観的に観察してるとこうなるしかないんです。
ここが七海の思索者としての本領だと、アタシは思っとります。面倒くさくてしんどい生き方ですよね。でも、だから、すごく共感しちゃうんです。

 

七海の批判精神は、当然他者にも適用されます。五条も例外ではありません
「私はこの人(五条)を 信用しているし 信頼している」
「でも 尊敬は してません!」
最強であり、先輩であり、力関係では上司に近い五条に向かって「尊敬できない」、つまり人格的に認められないクズだと言い切ってしまう。
この忖度のない物言い、素敵すぎるんです。
政治家も一般大衆も、同調圧力に屈して忖度しまくる日本にあって、七海の個人主義的明快さは小気味良いに尽きます。

 

職業人としての割り切り

労働をクソと考える脱サラ呪術師として、初期の七海にはドライな割り切りも見受けられました。
七海との初任務に燃える虎杖が「気張ってこーぜ!!」と張り切っても
「いえ そこそこで済むなら そこそこで」と、暖簾に腕押し
「残業は 嫌いなので 手早く 済ませましょう」なんて台詞もあります第21話『幼魚と逆罰‐参』より)。 

五条の改革へのゴリ押しや我儘に対しても
「上のやり口は 嫌いですが 私はあくまで 規定側です」
サラリーマンとしては最もな意見です。被雇用者は雇用者の規定に沿って働くのが大原則。労使交渉も服務規定に沿って行われるものであるし、どうしても賛成できないのであれば退職して他社に移るべきというのが実社会の常識。
七海は被雇用者としての立場を弁えているのですね。 

被雇用者としての割り切りに関しては、七海の縛り"時間外労働"も特徴的です。
その根本にあるのは「残業は人生のデメリット」という信念。だから、時間内は80~90%の力を出すだけにしておいて、時間外になったら110~120%のパワーでサックリ仕事を片付ける。
なるべく定時で上がって、家で飯・酒・読書を嗜もうという(以上、ファンブックより)。
分かる!ストレスが多い勤め人は独りが一番リラックスするのね~。

だからって、怠けたいわけではない。むしろ、七海は責任感の人。
誠実に服務しつつ公私混同を避けて、仕事と私生活を線引きしている。彼はクールな仕事人でした。
見習いたいものです。

 

職業人の厳しさとやさしさ

新米の虎杖は褒めて伸ばしてくれるのを期待しますが、七海の対応は
「褒めも貶しも しませんよ」
「事実に即し己を律する
  それが私です

ストイックですねぇ。ただ、虎杖にも厳しいセルフコントロールを求めているかというと、それも違う。
「社会も 同様であると 勘違いしていた 時期も ありましたが」
「その話は いいでしょう」
ちゃんと、自分の方が例外だと理解して、自分のポジショニング、虎杖との考え方の違いを説明しただけなのですね。

自己を律し、自分の責任を全うし、相手には押し付けない。それが、仕事人七海の仕事に対峙する基本姿勢なのです。

虎杖のポジションも、七海は明確に言い切ります。
「私も アナタを 術師として 認めていない」
「宿儺という 爆弾を 抱えていても 己は 有用であると  そう示すことに 尽力して下さい」
虎杖は、いつ宿儺にボディを乗っ取られるか分からない状態です。だから上層部は死刑を言い渡したのだし、渋谷事変の大虐殺も起こったのです。
虎杖が強くなければ宿儺を抑えられない。五条のようになあなあで済ますのではなく、任務の最初に注意喚起し、適宜アドヴァイスする。これこそが、指導者として必要なことでしょう。  
だから、猪野琢真のように七海を誰よりも尊敬する後輩がいるのだとおもいます。

七海の重要な線引きは、虎杖が15歳の子供であるという認識も持ちあわせ、危険回避に尽力するところにもでてきます。
真人による改造人間討伐に当たっては、勝てないと判断したら自分を呼ぶようにと、
「私は大人で 君は子供  私には君を 自分より優先する 義務があります」と、言い切ります。

「君はいくつか 死線を 越えてきた」
でもそれで 大人になったわけ じゃない」と。(第19話『幼魚と逆罰』より)
この後冒頭の「絶望」の件りがきて、今回の討伐対象が呪霊ではなく人間であることに気づいたところで、虎杖が止めをさすのを七海は阻止します第20話『幼魚と逆罰‐弐』より)
子供であり、新米の虎杖に人殺しを経験させまいとしたのですね。
虎杖が真人と戦いたいと申し出ても、同じ意見を繰り返します。

「この仕事を している限り 君もいつか 人を殺さなければ いけない時が来る
 でも それは 今ではない
 理解して下さい
 子供である ということは 決して罪ではない」
(第25話『固陋蠢愚』より) 
呪術師は呪詛師と殺し合いをする必要もあるのですから、職業訓練として考えると七海の判断は私情です。


この常識という私情の開陳に、私はとてつもなく驚きました。

少年漫画は基本的に子供が読むもの。なので、子供が大人を凌いで強くなり大活躍をするというのが定石です。だから子供が目的達成のために人を殺すことも肯定されます。
ところが、現実世界で子供が戦うシステムを作るのは非人道的と判断される。少年兵達の悲惨な状況を我々はウガンダやウクライナで繰り返し見て、痛ましい思いに駆られるわけですから。
分不相応な力を持ち大活躍した少年達は何かしらのトラウマを抱えて挫折を経験する『呪術廻戦』はその挫折を繰り返し、繰り返し描いています。
つまり、少年漫画の矛盾を繰り返し露出させていく。それを語る大人として七海を配し、少年漫画の本質的な矛盾に拘泥し続ける作者に驚きました。

 

呪術界に雇われ体制の中で機能している七海は、少年が戦うことが間違いだとは指摘できません。ただ、自分のできる範囲で子供を守ろうとする意志がある。
少年漫画の中に入り込んできた現実にギョッとし、『幼魚と逆罰』のモティーフの一つである虐めの問題に意識が戻されるのですね。
吉野順平の担任が七海のような配慮と観察眼を持っていれば、順平の悲劇は起こらなかった。

私達大人が配慮と観察眼を持っていれば、全国に蔓延する虐めの多くは食い止められたはず。と、七海の言葉がグサッときたのでした。

 

絶望と挫折の繰り返しの果てに

何故、七海は子供の無垢を守ろうとするのか?それは、七海自身が呪術界に絶望し、挫折した少年だったからだと思うのです。

呪術師をやめた経緯は、七海自身の言葉だと
「呪術師はクソだ
 他人のために命を投げ出す覚悟を
 時に仲間に強要しなければならない
 だから辞めた というより逃げた」(第30話『我儘』より)

命を投げ出す覚悟を仲間に強要した体験とは何でしょう。その手掛かりは『玉折』にあると、アタシは考えます。
高専1年生時代の七海には灰原雄という、明るい頑張りマンの同級生がいましたね。陰キャの七海と陽キャの灰原は夏油&五条に負けないくらいの名コンビに見えますが、共に討伐に向かった2級呪霊が実際には1級案件で、灰原は悲惨な死を遂げます。
冷静な七海が判断していれば、一旦撤退して1級術師に交代という事態であったかもしれません。正義感の灰原は、撤退時の被害を案じて前のめりに突っ込んでいったでしょう。灰原を引き留めることなく七海が参戦し、それが後押しをしてしまっていたら、責任感の強い七海だから「他人のために命を投げ出す覚悟を仲間に強要」したも同然と考えるでしょう。
灰原の死体を前にした七海は、怒りに我を忘れていました。そこで出てきた言葉が
「もうあの人(五条)1人で良くないですか?」

その場に立ち会った責任から逃れられない男夏油は、「呪術師というマラソンゲームの果てにあるのが仲間の屍の山だとしたら?」と疑い、解決策は非術師殲滅という結論を出してしまいます。
責任感は強くても冷静で個人主義的、仲間を必ず助けられるほど強くない七海は、仲間に死を強要するような立場から逃げ出してサラリーマンの道を進むことになります。

だから、七海は呪詛師となった夏油を否定しない。呪術師という不毛な生き方から逃げた自分に対して、少なくとも問題に立ち向かっていった夏油。だから、夏油の闇落ちを「責める気にはなれない」と言うに留めています(ファンブックより)
取る道を間違ったとしても、根幹には同じ後悔がある。だから責められないということでしょうか。七海らしい、善悪、白黒を簡単につけない思考過程がよくわかる意見です。


呪術師をドロップアウトした七海は、
「30~40歳までに適当に稼いであとは、物価の安い国でフラフラと人生を謳歌する」と投資会社に入ります。が、拝金主義と「お金持ちの金を預かってより金持にする…人間のサイクルから外れた仕事の方が(人間に必要なことを行う仕事よりも)給料が良い」という資本主義社会の構造的矛盾にも嫌気がさし、"生き甲斐""やり甲斐"を求めて呪術界に戻って来たのです。

 

呪術界への、さらに実社会への絶望を積み重ねて、挫折に挫折を重ねて人生の方向転換を図ってきた七海(第30話『我儘』より)
だから、呪術師に戻った自分の命に対する覚悟はガンギマってます。
でも、子供だった自分を救ってくれる人はいなかったけれども、せめて自分は子供の心を救いたい。
灰原も夏油も救えなかった分、虎杖を救いたかったということではないでしょうか。


迷いに迷い、紆余曲折して戻ってきた生業だからもう迷わない。自分の命などとうに諦めている。七海と戦うことで領域展開「無為転変」を獲得した真人の必中必殺の領域に閉じ込められ、
「今はただ
 君に感謝を」
なんていうキザな殺し文句をなげられても 

「必要 ありません
 それはもう 大勢の方に 頂きました
 悔いはない」と、冷静に受け流せる。(第30話『『明日の君へ』より)
大きかったり、小さかったりする絶望を積み重ねてきた大人だから持てる術師としての覚悟。感動です。


リアリストの諦観

ところが、庇われることを潔しとしない虎杖は自分と折り合いをつけて改造人間を殺して、七海を救いに領域に飛び込んでくる。虎杖の奮闘と最終的には虎杖の中の宿儺の存在により真人は敗走。七海の命は助かります。
基本的にリアリストな七海ですから、こうなったら子供がどうこうとか言わずに虎杖に救われたと実力をと認めます。
潔いですね。

加えて、この経験のせいで「正しい死」という自分の信念が揺らいでしまった虎杖に

「そんなこと 私にだって 分かりませんよ」
「善人が安らかに 悪人が罰を受け 死ぬことが 正しいとしても」
「世の中の 多くの人は 善人でも 悪人でもない」
分からないことは分からないと明確に言う。その上で分かっていることを精査し不都合な真実も受け入れる
フェイクな情報が飛び交う現代の情報社会にあって、これは最も重要な切り分けです。
ワイドショーやニュースが垂れ流すイメージに感情的に踊らされず、自分が何をしらないのかと情報を吟味する。そうすることで物事の実態が見えてくる。
冷静に実態を把握することがサヴァイヴァルに繋がる。今はそんな時代です。


私も少し、脱線したようです。話題を七海の言葉に戻しましょう。
「死は 万人の 終着ですが  同じ死は 存在しない」
「それらを全て 正しく導く というのは きっと苦しい」
「私は  おすすめしません」
「などと言っても 君は やるのでしょうね」
「死なない程度に して下さいよ」
「今日 君がいなければ 私が死んでいたように  君を 必要とする人が これから大勢現れる」
虎杖君は もう 呪術師 なんですから」(第31話『また明日』より)
と、善でも悪にもなりきれない人間存在と不可避的な死という真理を告げ、虎杖の選んだ道の険しさと彼の価値、己を大切することを説く。
この総てが虎杖という正義感の少年にとって珠玉の教えであり、作中最も信頼できる諦観です。

 

作者は五条を諦観の人と語りますが、彼の「愛ほど歪んだ呪いはない」やその一番弟子である伏黒恵の「少しでも多くの善人が平等を享受できる様に俺は不平等に人を助ける」は、彼ら個人の心の傷が色濃く反映しすぎて解脱には繋がりません。

リアリストの七海だから語れるフラットな現実認識と、相手の考えを否定も肯定もしない態度、これが平穏な精神状態を導く諦観であると、私は考えます。

虎杖に術師としての心構えを説いた最初の師は、七海だと私は考えています。

 

七海の強さと渋谷事変

虎杖に救ってもらう必要があった七海は弱いのでしょうか?そんなことはありません。七海は一級呪術師。等級としては呪術界の最高位。中でも呪力を2.5乗底上げする黒閃を4連続で決めた(映画『呪術廻戦0』より)七海はエリート中のエリートです。

術式は、どんな対象にも弱点を強制できる十劃呪法。対象を7:3に線分し、その比率の点に攻撃を当てることができればクリティカルヒットを与え、破壊しうる。格上の相手にもダメージを与えられる強力でアグレッシヴな戦闘方法。(第20話『幼魚と逆罰‐弐』)

九十九、五条、夏油、乙骨という、単独で国家転覆が可能な特級というくくりが、異常値なのです。

とはいえ、七海には自他を治癒する反転術式も必中必殺の領域展開もありません。
真人や陀艮、漏といった、知性を持ち領域展開も習得した呪霊が現れてしまったこと。羂索や宿儺という特級の上澄みな過去の術師が現れてしまったことで、一級術師では対抗できない戦いの世界が渋谷事変では開かれてしまったのです。

 

呪詛師の重面春太に刺されて倒れた、後輩で補助監督の伊地知潔高を発見。その姿と灰原の死に顔が重なって見えた七海は述懐します。
己の不甲斐なさに腹が立つ などということは 
 今までも そしてこれからも 私の人生では有り得ない
ただひたすらに この現実を 突きつけてくる 諸悪を ただひたすらに
(第99話『渋谷事変17』より)
自分の弱さも強さも自覚して、職業として呪術師に戻った七海は、その実力に落胆などしない。仲間が犠牲を強いられた現実とそれを引き起こした諸悪に憤り、己の身を顧みず"ただひたすらに"諸悪に立ち向かい、倒そうと、"ただひたすらに"仲間を救おうと決意したのでしょう。
だから、"1級で最低レベル"の分のない戦いに挑んでいく。
重面に圧勝した後は、禪院直毘人と共闘して、左目を失いながらも真希と伏黒恵を呪霊
の陀艮から守り、漏瑚に左半身を焼き尽くされても救護者として控える家入硝子の元に戻ることなく、改造人間を倒し続ける。もう、命は捨てているのですね。
マレーシア... そうだな… マレーシア… クアンタンがいい」
「なんでもない 海辺に 家を建てよう 買うだけ買って 手をつけてない本が 山程ある  

 一ページずつ 今までの時間を 取り戻すように めくるんだ」
死を目前に見果てぬ夢を見る。伏黒や真希、直毘人を案じながらも本音が出る。
…疲れた 疲れたな そう 疲れたんだ もう充分やったさ

胸が痛くなるような独白。サラリーマンにもこういう瞬間はありますね。過酷な長時間労働が毎日続いて、白日夢に逃避してキャリアを諦めかける瞬間。
七海のモノローグは、本当に他人事ではないリアルさで迫ってきます。もう十分だよ、七海休んでと、視聴者も思うのです。
そこから真人に襲われて死を覚悟した瞬間、語り掛ける相手は、やはり親友。
「灰原 私は結局 何が したかったん だろうな」
「逃げて 逃げたくせに やり甲斐なんて 曖昧な理由で 戻ってきて」
夏油が灰原の死に傷ついたように、五条が夏油を忘れられないように、七海にとって灰原の死は消えないトラウマだったのですね。そして、七海が戻る最後に戻る場所も灰原の元。灰原が亡くなった後「七海は1人です」とわざわざファンブックに明記されいるあたり、このコンビも本当に重い。
内省する男、思索し続ける七海はここに来ても自分の存在意義を灰原に向かって問い続ける。確かに"やり甲斐"なんて明確なキャリア目標ではありません。でも、人生に明確な目標が持てる幸福な人間など何人いるでしょうか?
とことん、悩み考える七海は、殆どの人間が看過する職業選択の意味付けを、どこまでも問い続けるのです。私だって、本当にはそう思ってましたよ。自分は中途半端に生きてきた人間だと。だから、どこまでも辛い死に際。
迷える七海の前に現れ、虎杖を指さす灰原。宿儺に意識を乗っ取られて、自分の身体で渋谷の一般人を虐殺、自分を「死ね」と呪うどん底の虎杖を灰原は指さしたのです。今際の際に言葉を残せと。

「駄目だ 灰原 それは違う 言ってはいけない」
「それは彼にとって ”呪い”になる」(第120話『渋谷事変38』より)
虎杖の状況を理解していない七海は、呪いとなる末期の言葉を残したくない。多分、死者の世界から総てを見通している灰原は、虎杖を生かす言葉をかけたい。ということなのでしょう(第236話『南へ』からの推測)。
虎杖君 後は 頼みます(第120話『渋谷事変38』より)

結局、自分には継続不能になった戦いの後を託すという呪いの言葉を残してしまう七海。この言葉と七海を殺害した真人への怒りが、意気消沈していた虎杖を覚醒させる切っ掛けになったと私は思っとります。

ただ、虎杖が本当に前を向けたのは、ブラザー東堂葵の叱咤あってこそであり、
俺 ナナミンの分まで ちゃんと苦しむよ(第127話『渋谷事変44』)という、七海の苦闘を引き受ける苦しい決断となったために、七海の遺言は賛否別れるものとなっておりました。

では、七海は残した言葉をどう捉えていたのでしょうか?

 

七海の本懐(以下ネタバレ)

上の答えは第236話『南へ』にあると言えるでしょう。

 

瀕死の五条の妄想とも彼岸への橋渡しとも思える羽田空港のターミナル。五条が理子とともに天内を追った地、青春を謳歌した沖縄行きの航空機の発着場所ですね。

そこには、学生時代に戻った姿の夏油と一緒に七海と灰原死んでしまった同窓生たちが五条を待っていました。

五条を真人と比較して「似ている…絵に描いたような軽薄」「その奥にあるドス黒い強さ」第21話『幼魚と逆罰‐参』より)と評していた七海の毒舌はここでもキレキレです。 

老いや病でなく、自分よりも強い相手に倒されたことに満足する五条を、
「どこの 武将ですか」
「到底 現代人とは 思えない思考だ 気色悪い」
「あなたは呪術を 生きるため 何かを守るために 揮うのでなく

 ただひたすら 自分を満足させる ために行使していた 変態でしたから」
七海は真っ向批判。さすがの五条も、そこまで言われるとはてな感じでギョッとしています。周囲も、それは分かっていても言わないでおくことてな感じで否定しない。
人間離れした奴と理解しながら群れてくれる、いい仲間を五条は持ったものです。
そして、七海らしいフォローも入ります。
「あなたらしい 最期でしたよ 肯定はしませんが 同情はします」 
七海の五条評価は、素晴らしく一貫
していますね。その能力は全面的に認めているし、共闘するものとして信頼しているけれども、最強という制約と視野の狭さを人間としての欠落と感じて憚らず批判し、同時に哀れを感じてさえいる
なんとも健全な距離感を持つ客観的な立ち位置です。さすがに、内省する思索者です。この客観性、批判的考察力が夏油にあったら、数々の悲劇が防げたはずなのにと、七海を見ていると考えずにはいられません。

自身の死はどうだったかと五条に切り返されて、七海は述懐します。

「呪いが 人を生かす こともある」
「呪術が そうで あるように」
「後は 頼みます」と残した呪いが虎杖を生かしたことを確信して、満足している
のですね。さらに、あの瞬間の灰原の出現が意図的介入だったことも、灰原から示唆されます。つまり、2人の親友の共同作業が、虎杖を現世に繋ぎ止めたものだったと。

さらに、七海の回想は続きます。
「以前 冥さんに おすすめの移住先を 聞いた時に 言われたんです」
「新しい自分に なりたいなら北へ」
「昔の自分に 戻りたいなら 南へ行きなさい」
「私は迷わず 南国を選んだ」
「そんな 後ろ向きな私が 最期に未来に 賭けたんだ」
「悪くない 最期でしたよ 灰原にも 感謝してる」

南は過去、北は未来というのは、釈迦の四門出遊に准えているのでしょう。29歳の釈迦は東西南北の4つの城門から4度旅に出、それぞれの門の外で老人、病者、死者、修行者に出会い、出家を決意したという故事です。
老いと病は五条の言葉で否定されていますが、南には未来を持たない死者があり、北には研鑽を積む未来があるということでしょう。

そして、この章のタイトルは『南へ』。五条が思い描く同窓生達は過去の自分たちに戻ることを選んでいる。かけがえのない親友と気の置けない仲間が集っていた輝くような青春時代、やはり、そこに戻りたかったのだと。

そして、迷わず南を選んだ「後ろ向きな」七海。
この逸話に私は、「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きにしか生きられない」というケェルケゴールの言葉を重ねてしまいます。

自分の人生を理解しようとする時、我々は過去の自分の行動を分析・整理し何らかの結論へと帰納するしかありません思索する人七海は、何度も過去を振り返り、その判断を問い、価値を図ったことでしょう。とはいえ、この状態に留まっていたら、人間は過去に生きるのみです。
過去を精査した判断を未来に向けて、自分の可能性に向けて投企する。そうすることで人間は生きることができるというケェルケゴールの名言。
今際の際で、虎杖の未来に自身の思いを投企した七海。その思いを背負って宿儺と戦う虎杖(第247話『人外魔境新宿決戦19』より)。

さらに、七海の武器であった鈍刀は呪具となり、猪野に引き継がれ、準一級の猪野が御形の宿儺と戦えるまでになっている。

 

 

後ろ向きに思索し続け、今を戦い続けた男の今際の際の意思が後進の未来を切り開いている。なんとも見事な往生、本懐であるなと感動いたしました。

呪術廻戦に死後の世界はあるのか?大罪人の夏油が仲間と過ごす彼岸があっていいのか?それは大きな疑問ではあるのですが、『南へ』で再会できた七海と灰原に、安らぎを覚えます。だから、死後の七海は灰原と南で安らかにしていて欲しい。

内省するモラリストよ、南へ戻ろう!そして、書を読み、友と語らう冥界があってくれと願う一ファンでした