エンタメ 千一夜物語

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伏黒甚爾考 強くて狡猾でどうしようもなく脆いろくでなし

©芥見下々/集英社・呪術廻戦製作委員会

アニメ『壊玉・玉折』の放送以来、敵役なのに人気沸騰している伏黒甚爾。強くて恵体のイケメンという他は救いようもないこの男に、何故、私たちは惹かれるのか?考えてみました(本誌241話までのネタバレ要素あり)

※表記内容を正確なものにするため、引用はコミックスから行っています。

 

 

五条・夏油vs伏黒甚爾のクズっぷり

甚爾(伏黒姓の登場人物は恵や津美紀もいるので、名前呼びとします)の初登場シーンは競艇場。
定職もなく一人息子の名前も忘れて、1レースで30万を摩り、罪もない女子中学生の殺害をカジュアルに引き受ける。とんでもない、クズの人でなしとして甚爾は紹介されます。私などは最初嫌悪と反感しかなかったです。

 

五条・夏油という主役2名に甚爾も含めた『壊玉・玉折』のメインキャストは全員クズなんですね。
全員クズなんて、そんな少年漫画あっていいの?『チェンソーマン』第1期だって、早川アキというイケメン思いやり常識人がいたでしょ。
メインストーリーじゃなくて、五条の過去を描く章だから許されたのか?ポスト『鬼滅の刃』として『少年ジャンプ』の看板になろうとしていたから許されたのか?

にしても、強くてクズでカッコイイ男ばっかとはオモシロすぎる!新鮮この上ない!みたいに考えた読者でした。

おまけに、この3人クズとしての位置づけが対局なのにも興味惹かれました。
高専3年にして日本に3人しかいない特級術師に上り詰めた五条と夏油は、呪術界からしたらとんでもないエリート。「俺たち最強」と言って憚らない。
一般家庭出身の夏油は人の気持ちは読めるけれども、文武両道に優れている様子で、慇懃無礼に周囲を小馬鹿にする傾向あり。名門御三家出身で甘やかされて育った(ジャンプ GIGA 2022 AUTUMN』より五条は「弱い奴らに気を遣うのは疲れるよ」なんて、ハナッから一般人と自分に線引きがあるんですね。

要するに、五条と夏油は思春期特有の全能感に酔い、傲慢なエリート思考だからクズな奴らなんですね。大手を振って、クズな言動で周囲を劣等感に落ち込ませる。これはこれでサイテーです。

 

一方、いくら稼いでも賭博で溶かしてその日暮らしの甚爾は社会の最下層にいます。底辺に蠢く凶悪な犯罪者。こっちはサイテーな上に恐ろしい。とはいえ、
自尊心は捨てたろ
   自分も他人も 尊ぶことがない
 そういう生き方を 選んだんだろうが
と死の間際で述懐するような、甚爾は自己肯定感皆無の男。行動は許せないけれども、クズさには同情、共感の余地があるんですね。

甚爾の強烈な強さ、にも関わらずの劣等感と駄目さ加減。その絶妙なバランスの上に、甚爾の魅力は成り立っているのですね。

 

アッチ側の、圧倒的な強さと奸計

発達した五感で呪霊を捉え、五条の赫に耐える程に頑丈な肉体を持ち、水上を駆け空気の面を捉えて宙にも浮く。
呪力を載せない殴り合いであれば、成長した五条や夏油も叶わない(ジャンプ GIGA 2022 AUTUMN』よりパワーとスピードも超人的。
甚爾のフィジカルな強さは将に圧巻です。
あらゆる人間がわずかながらも抱えている呪力を全く持たない、呪力0という持って生まれたディスアドヴァンテージであり、肉体に強制される縛りである"天与呪縛"による強靭な肉体"フィジカルギフテッド"
全てを捨て去った者の、剥き出しの肉体、その躍動(アニメ第39話 揺蕩-弐)」は、とてつもない破壊力なのです。

 
呪力が呪力に反応する結界の約束事にも縛られず、呪力を持つものにのみ作用する術式(例えば宿儺の捌)も無効となる。だから高専にある天元の結界も素通りでき、並みの術師なら近づいても気付かれない。まさに透明人間。

 

呪霊を祓うには呪具が必要ですが、甚爾は呪具だけでなく格上の敵も弄べる、巧みな戦術的IQも備えています。

星漿体任務では、48時間の天内暗殺のゲーム阻止させて、"2人で最強"と豪語する高専時代の五条・夏油コンビにやらせの成功を与えることで油断させ、2人を瀕死に追い込んだわけですし、その悪名通り"術師殺し"には最適な能力を備えているのですね。

 

『呪術廻戦』第151話  ©芥見下々/集英社

ステルス性能を備えた甚爾ですが、ヴィジュアルは派手に圧巻ですね。甲冑のように頑健な筋肉で覆われた肉体の圧は凄すぎです。

直毘人の長男であり甚爾の従弟、渋谷事変時点で禪院家次期当主と見なされていた直哉は、子供時代に面白半分で見に行った甚爾に圧倒されて一目惚れ(上の絵)。
五条と並び「アッチ側に立つ」強さと傾倒して、甚爾推しの限界オタクになってこっそり付きまとっていた模様(ジャンプ GIGA 2022 AUTUMNより)。

にしても、直哉が初めて見た甚爾の1コマ絵は凄いですね。圧倒的な強さを発散しながら、だらしなく纏った着流しで右腕を懐手にしたなんとも崩れた無気力な様子。視線には底知れない怒りと世を拗ねた反抗心が見受けられ、妙な色気がある。1枚絵で甚爾の複雑なキャラが描き出されてますね。一枚絵で人間性を表現しきる画力は、芥見氏に並ぶ漫画家なしと信じて疑わない読者です。

 

何故、こんなに強く奸智にも長けているのに、劣等感に凝り固まることになったのか知りたくなります。 

 

禪院という魔窟が生んだ因果のバグ

婿入りする前の甚爾の姓は禪院。真希や真依と同様御三家の一角、禪院家の出身。真希・真依の従兄に当たります。

禪院家に非ずんば呪術師にあらず 呪術師に非ずんば人に非ず」を家訓とするこの一家。男尊女卑で血統至上主義の術式至上主義。とてつもなく歪で非道、狂ってます。

直毘人の前の25代目当主の次男としてこの家に呪力を全く持たない甚爾は生まれたのです。

 

呪力を持たない、もしくはほぼ持たないフィジカルギフテッドの甚爾と真希が、術式至上主義の禪院家から輩出したというのは、なんとも皮肉です。まるで、禪院家の傲慢や無辜の人間を虐げてきた罪業に対する罰として生まれ出たバグのような2人。
作者はフィジギフが禪院家特有の存在ではないと言っていますが、禪院家の因果の結果ということは考えられるでしょう。

アニメ第41話『霹靂』で、親子であることを知らず父親の甚爾に襲われた伏黒恵が奇しくも甚爾を「真希さんの完成形」と評します。

「因果応報は全自動ではない」と恵は確信しており、善人が報われるかいなかということに関しては確かにその通りなのです。
とはいえ、呪いが巡るのが『呪術廻戦』の基本的世界観。
夏油が五条に処刑されたように、拝み婆が自ら降霊させた甚爾に殺されたように、思わぬ時、思わぬところで因果の報いは巡ってくるのです。
術式に固執し無辜の人々を虐げた禪院家の罪業への報いとしてフィジギフが生まれて来るろいう可能性も否定できないでしょう。

 

一般人程度の呪力で術式を持たない真希や術式の弱い真依は虐げられた幼少期を送っていたと描かれていますが、呪力を持たない甚爾の待遇がどれほど悲惨だったか、想像するだけでゾッとします。

呪力がないという天与呪縛によるフィジカルギフテッドで、成人した甚爾は超人的ですが、幼少期には非力な時期もあったでしょう。

禪院家は準一級術師以上の実力者たちからなる精鋭部隊「炳」、格下の術師達を擁する中間戦力「灯」、術式を持たない親族男子からなる最下層兵団「躯倶留隊」を抱える武装集団。
屋敷の地下には無数の呪霊どもを飼う巨大で堅牢な懲罰(訓練)部屋も設えています。ここは呪霊を倒さなければ喰い殺される、倒す力がなければ自力では出られない恐ろしい空間です。
この懲罰部屋に甚爾は小さな頃から放り込まれるなど様々な嫌がらせを受けてきた。口元にある傷はその時にできたものとのこと(ファンブックより)。
真希・真依姉妹と母親の冷えた関係性から推測しても、それ以下の甚爾が母親には庇われていたとは考えづらい。禪院家は、当然のことながら男尊女卑なので、妻が戒律に背いて子供を庇うなど許されないようです(『葦を啣む』より)。
甚壱という兄がいますが、禪院思想に固まった兄も救いの手を差し出したとは考えにくいです。

当主の次男でありながら愛を受けることなく虐待されて育ち、親族内の最下層である躯倶留隊の一兵卒として蔑まれる毎日。
勿論、フィジカルギフテッドの超人性を開花させても、今度は遠巻きに恐れられるばかり。これでは、自分を肯定し、愛し尊ぶ意識は育たないでしょう。

なので、グレて家を出奔ファンブックより)。御三家では子供たちを学校に通わせない(ジャンプ GIGA 2022 AUTUMN』より)ので義務教育の修了書もなくまともな就職は不可能。

金もない職もない状態で家出した甚爾はヒモのように女性の元を転々としファンブックより)、腕っぷしで裏稼業をこなして日銭を稼いでいるうちに術師殺しになっていたというところでしょうか? 

 

人格が固まる時期に愛してくれる家人がいたら、普通に教育を受けることができていたらここまで墜ちることもなかったのかと嘆かれる、最初っから詰んでる破れかぶれな人生でした。

 

何故術師殺し、五条悟を選んだのか?

何故、甚爾は術師殺しの異名を取ることになったのでしょうか?何故、殺しの道を稼業として選んだのか? 
殺しは一遍に大枚が稼げる、超人甚爾には楽な仕事。その中でも術師に対してステルス性能と殺せる能力を持つ甚爾には、術師殺しの適正がありニーズもあったということでしょう。とはいえ、殺し屋稼業というのは、真っ当な倫理観と情緒を持つ人間には酷な仕事です。  

2度目の結婚でできた義理の娘津美紀に甚爾が、「喧嘩は止めるもんだ。喧嘩を止めれば褒めてもらえるし2人殴れる」という謎理論の講釈をする場面があります(コミックス20巻おまけより)。
この言葉から読み取れるのは、甚爾には人を殴りたい暴力衝動があったということ。とはいえ、理由のない暴力行使は良くないと考える程度にはモラルがあり、正義の側に立つ方が生きやすいという常識を備えていたということです。

にも拘わらず、甚爾は術師殺しであり続けることを選んだのです。
呪力・術式を持たない息子として禪院家で虐げられ、存在価値を否定されてきた甚爾は無意識下で、呪術界全体から否定されているように感じていたのではないでしょうか?
だから、自分の育ちへの復讐のように術師殺しをしていたのではないか?という可能性が浮かび上がります。

ですが、甚爾の奥深くにある倫理観は殺し屋稼業に抵抗と罪悪感を感じさせる。だから、稼ぎを正当な報酬として前向きに使うことができず、賭博で消費してしまっていた。という、甚爾の内的な葛藤を推測する読者です。

 

そして、最強の術師五条悟は呪術界の象徴のような存在。
星漿体天内理子殺害任務遂行に当たって、五条を潰す必要があるのは眼に見えていました。最強に返り討ちに会う結果も十分あるのに任務を受けた。呪術界の象徴を打ち壊したくなって任務を受けたのではないでしょうか?
そして知略と奸計の限りを尽くして五条を一旦は死に追い込んだ。
成功していれば、この任務は甚爾の呪術界に歯向かう復讐の頂点となったでしょう。

 

通常任務のようにターゲットの死亡により報奨金を得て逃走することなく、死の淵から覚醒し反撃してきた五条を敗北覚悟で迎え撃ってしまい、案の定敗北してしまう。

「自尊心は捨てたろ」の下りは、それを捨てきれなかったことの裏返し。善人であることは捨てたのに、悪党にもなり切れなかった中途半端な生き方の吐露と言えるでしょう。


結局は八つ当たり人生

そう、術師殺しを選んだこと、呪術界の象徴である星漿体と五条悟殺害を企てたことは、禪院家で虐げられてきた過去への復讐に見えるのです。
これって、言ってみれば八つ当たりです。

本来であれば、禪院家の悪しき伝統を打ち壊すのが正当な怒りの発散でしょう。
今の禪院家が在るのは甚爾さんの気まぐれだ!!」と、炳に所属する親族の若者蘭太は述懐します(『葦を啣む』より)。
多分、禅院家を飛び出すときには甚爾は大暴れをしたのでしょう。でも、壊滅は果たせなかった。それを、蘭太は気まぐれと評したのですね。 

 

何故禪院家を壊滅させなかったのか?
もし禪院の軍隊組織を壊滅させても残った女子供から情報は洩れる。そうなると呪術界全体を敵に回して、厳しい追手から逃げ回らなくてはならないから。
甚爾を倒せる特級術師が出奔当時はいなかった可能性が高いので、面倒ではあっても逃げ切ることは可能だったでしょう。
禪院にも直毘人のように話の分かる人間や罪のない女子供もいたので、人情として実行できなかった。これは十分考えられます。
暴れて出奔した時には、感情的になっていただけ。禪院自体を潰すまでは考えが及んでいなかった。禪院家や呪術界への恨みは甚爾の無意識の中で煮凝っていた。

原因はさまざま考えられます。私としては、甚爾の中に根深く巣くっていた無気力、無力感が③として働いたと考えています。

 

-----ネタバレ-----

何故、禪院家壊滅に拘るのか?それは、甚爾の下位互換だった真希が妹の真依の死によりフィジギフとして全面覚醒した時に、禪院軍団を壊滅させるに至ったからです(『葦を啣む』より)。
真希の場合、法律上の禪院家当主となっていた伏黒恵と共闘し、獄門疆に封印された五条奪還のため先祖伝来の呪具を取に向かったのに禪院軍団に潰しに来られた。父扇に真依が殺され、「全部壊して」という今際の言葉もあり、軍団を誅殺するには十分な理由がありました。

背景は異なるけれども、同等の強さと恨みを持った真希に実行できたのです。
真希の行為は賛否両論で未だに論議の的になっていますが、少なくとも彼女は怒りの対象自体に怒りを向けることができた。その正当な怒りの発露という行為が何故甚爾にはできなかったのか?
正当に怒りを発露させるには、怒る自分を正義と見なす必要があります。自分を正義と見なすには、まず、自分を尊ばねばなりません。 
「自分も他人も 尊ぶことがない」甚爾には不可能なことです。
自分を尊ぶには、人格形成期に愛し尊んでくれる存在が必要です。甚爾にはこの存在がいなかった。真希にはその人がいたのです。
真希を愛し尊び、救い人として頼り切っていた妹の真依がいたのです。真希が強くあろうとした根幹には妹への愛、弱い妹を守る、妹の居場所を造るというモチベーションがありました。
一族から否定されても、守るべき妹からの愛と敬いが真希の自尊心を担保していたわけです。だから、真希はいつでも胸を張って周囲に挑戦し続けることができた。
愛する妹を奪われたら復讐の鬼神となれたのでしょう。

-----ネタバレ終了-----

 

無心に愛を与えてくれる誰かが成長期にいなかった甚爾には、心の拠り所も自尊の源もない。無気力に鬱憤をばらしを続けるしかなかったのでしょう。

通り魔連続殺人犯の刑事裁判の弁護過程では、幼児期から続いた虐待が弁護側から語られることが多いですね。つまり、彼らの犯罪は虐待の源に反逆することができなかった者の八つ当たりであるということになります。

このように考え合わせると、甚爾の術師殺しもそのような八つ当たりだったという確信は深まります。そう考えると、実に悲しい人生です。

 

 

プロヒモ甚爾

甚爾には、女性の元を転々として暮らしていたヒモという側面もあります。
恵体でイケメン、殺し屋稼業の薄暗さと屈折した人間性が放つ歪んだ色気がある甚爾。これはモテますね。女性に阿らなくてもモテる。
殺し屋ですから仕事を請け負った際の稼ぎはデカい。
「ドカッと稼いで"バーッ"とまたなくなるまで使うので、リターンのあるヒモ」と芥見氏も説明しています(ファンブックより)。

 

甚爾には、肩の凝らない可愛い気みたいなのもあるんです。
義理の娘津美紀に「喧嘩は止めるもの」を語る時なんかも、さりげなく仲良しなんですね。義理の娘とか気負わずにフラットに付き合ってる。多分、甚爾は女性に対してこんな感じなんでしょうね。
いかついイケメンで怖そうなのに、話すと子供っぽくて愛嬌がある。これはアタシが面倒見てあげないと的にモテる。夏油とは別ベクトルでモテまくりでしょう。

酒には酔わないから呑まない質の甚爾は酒乱でもない。津美紀との様子を見るに、DVとも無縁そう。だいたい、暴力など奮ったら相手は死んでしまいますから。

 

甲斐性はないけれども憎めない、放っておけない男。プロのヒモと言われるのも納得です。

 

甚爾を改心させたママの恵み

こんな犯罪人のヒモ男が、結婚して子供を持つなんて真人間な生き方するように丸くした恵の母親、通称恵ママ凄いですねぇ。
漫画でも1コマ、1フレーズの台詞しか出てこないのに大インパクト。笑顔といい、アニメの声(CV名塚佳織)といい、元気で明るくてこれぞ光属性の人。 
前向きな愛を惜しみなく、陽光のように与えてくれる人に違いない。

 

甚爾が後ろ向きな自己嫌悪に陥りそうになっても、笑顔で隣にいて何気なく前向きにさせてしまったんでしょう。ママが甚爾を愛し尊んでくれるので、甚爾もそれを返すことができた。その結果として自らを尊ぶことができた
だから、子を生して健全な家庭を作ろうと努力できたのでしょう。
不遇だった甚爾に恵まれた嫁、息子、家庭。この時の甚爾は幸福だったでしょう。
だから、息子を「恵」とまづけたのかなと思ったりします。

ところが、恵が生まれてまもなく最愛の女性は亡くなり、甚爾は元のろくでなしに戻ってしまう(ファンブックより)。

甚爾の愛や尊ぶ心は、恵ママの陽光の照り返しのようなもの。光源がいなくなったら、恵に情はあってもどうしていいか分からなくなってしまったんでしょう。
人を愛するには勇気と胆力がいる。乳飲み子が相手であれば果てしない忍耐も必要になる。
子供を慈しみ、育むことに一歩が踏み出せなかった甚爾は、勇気にも胆力にも忍耐にも欠ける弱い、脆い男だというしかないでしょう。
身体的には強健でも精神的には脆い男なのです。 

 

息子恵への情

だから、「恵をよろしくね」という最愛の女の願いも守れない。だから、 「 自分も他人も 尊ぶことがない」と言うしかないのですね。
多分、息子ともども女の元に転がり込んで面倒を見させ、自分は遊び歩いて殺し屋稼業で日々を凌いでいく。
で、息子と同い年くらいの娘を持つ女を見つけたら女の元に婿入りして育児を丸投げしてしまう。
※伏黒姓になったのは恵ママ死亡後というのは、恵ママが死んだ後に孔時雨が子育てする甚爾をおとずれたことがあり(ファンブックより)、甚爾の姓が禪院から伏黒に変わったのはその後という『壊玉』での会話から判断しています。
本当に情けない男です。

恵ママの死で自暴自棄になったことに加えて、本来は真っ当な倫理観を持つ甚爾ですから、恵を犯罪者の息子にしてしまうことに不安もあったでしょう。生まれながらに呪力を持つ恵、術式が開花していく息子にどう対応したいったらいいのか分からなかったというのも、恵の育児を放棄した理由ではあるでしょう。
オレにとっては ゴミ溜めでも
 術式があれば 幾分ましだろう
犯罪者の息子であるよりは幾分まし、相伝の術式ならば当主になることも可能という判断で、甚爾は恵を禪院家に売ったのではないかと推測します。
この取引の約束成立後に伏黒ママに息子の養育を任せきりにし、名前も忘れることにしたのではないかと。恵の人生から、汚点でしかない自分を消し去ることにしたのではないか?直毘人との話合いを終えてからの打ちのめされたような甚爾の表情を鑑みると、そう思わずにはいられません。
だとしても、育児遺棄というネグレクトは幼い恵みを確実に傷つけていますし、娘にした津美紀の行く末は何も考えていない。ろくでなしの所業であることは確かです。

 

呪力を持たない男の賭け

愛も自尊心も息子もすべて捨て去ったはずの男が、自分を肯定するために覚醒した五条悟に挑んで敗北する。
その死の直前に眼に浮かんだのは、寂しそうな幼い息子の顔
因習だらけの禪院で息子は幸福になれるのか?大事にしてもらえるのか?
正義のために戦い、天内の未来のために星漿体同化を断念できる目前の男。その男、五条の善性に賭ける方がまだましではないか?
敵である自分が五条に頼み事はできない。呪力のない自分には、息子の幸福を願う呪いの言葉も残せない。

だから、言い残すことなどないと宣った後から
「2 3年もしたら 俺の子供が 禪院家に 売られる
 好きにしろ」と、一言が漏れる。
死を目前にした刹那、漏れ出した親としての情。これがあるから、甚爾を憎み切れない人は多いかと思います。
そして、この言葉は一生勝機のなかった男が人生最大の賭けに出たギリギリの台詞ではなかったでしょうか?

この言葉があったから五条は恵の保護者となり、恵は愛する姉の津美紀と暮らし続けることができた。男は最後の賭けに勝ったように見えます

渋谷事変でオガミ婆の降霊術により婆の孫に肉体の情報を下ろされ、その傀儡として現世に戻った甚爾。ところが、バグである甚爾の肉体の情報が婆の術式も孫の魂も圧倒し強者を倒す殺戮人形と化して暴走。何故か、 陀艮の元に現れて息子たちを救います。
陀艮を倒した後も、格上の直毘人や七海ではなく恵みをタイマンの相手に選んで、漏瑚の一瞬で焼き尽くす火力から結果的に恵みを守ることになる

その後のタイマンの最中に、捨てた息子の記憶が蘇り

オマエ 名前は
伏黒……
禪院じゃ ねえのか
   よかったな」と、自害します。

息子が、陰湿な禪院に入らずに済んだことを確認しての満足死。
このまま存在し続ければ、また暴走して息子を襲うかもしれない。自害は必要であったと思います
甚爾そのものではなく甚爾の情報を持った何者かであるとはいえ、混乱と危険の中に息子を残して満足死とは、やはり人でなしな所業です。

 

ところで、この人でなしは本当に賭けに勝ったのでしょうか?

 

因果律のバグの所業の報い

 

甚爾が五条を出し抜いて星漿体暗殺に成功したのは、強さと奸智に加えてもう一つの要因があります。

-----ネタバレ-----

日本全土に結界を張り呪力の安定を守っている不死の存在である天元。その天元が人としての形態を保ち、人側にあるために500年に一度新たな肉体と同化する必要がある。その同化の器として生まれてくるのが星漿体であることは『壊玉・玉折』で語られました。
薨星宮を訪れた虎杖、伏黒恵らの前に天元が姿を現すのが第145話『裏』。
ここで天元は夏油の死体を乗っ取っているのが、千年の時を生きる呪術師羂索であること。羂索は日本人に進化即ち一億総呪霊化を強制しようと企み、そのために天元を自らに取り込むべく暗躍、天元の新たな同化阻止を図ってきたと明かします。
さらに、これまでは羂索の妨害は因果律により阻止されてきたと。

「天元・星漿体・六眼はが全て因果で繋がっている」と。何名かの候補が存在する星漿体。星漿体を守る役割の六眼は一人。この因果は破られることがなかったと。
羂索が五条家の六眼を赤子のうちに暗殺しても、同化当日には別の六眼がリポップして儀式は恙なく行われてきたと。

ところが、12年前の同化当日には天与呪縛により呪力から完全に脱却した存在の甚爾が現れた。

因果律を外れたバグ、因果の外にある甚爾が天元・星漿体・六眼の因果機能を破壊してしまい、星漿体との同化は果たせなかったと。

高専生徒の訪問時点では結界により理性を保っていた天元でしたが、同化失敗により不安定な状態となり、日本は羂索の手になるカオスへと陥っていくことになるのです。

-----ネタバレ終わり-----

 

日本を安定させる因果律自体を破壊していたとは…
甚爾の罪業はとてつもなく深いものになっています。

 

因果律から解放されており、なおかつ死んでいる甚爾に因果応報は適用されません。

でも、息子は因果律の中で生きていて、死滅回遊の中で悲惨な状況に陥っています。甚爾が破壊してしまった因果の果てに起きた災厄の渦中に息子はいるのです。

親の因果が子に報いる。最も残酷な因果応報の運命の中にいると言っても過言でないのです。

 

『呪術廻戦』という枠組みの中の甚爾の役割

甚爾は、実に魅力的な敵役です。
おまけに、因果律からはじき出されたバグが因果律自体を破壊して、メインキャストの死に繋がる悲劇の連鎖を生んでしまう。

重要で、なんとも皮肉な破壊者の役割です。

 

ところで、『呪術廻戦』は登場人物の志が砕かれ挫折していく悲劇が繰り返し描かれる皮肉な物語です。
「弱者生存」を目指した夏油は弱者である非術師を狩る者となり、「最強」を謳う五条は花御、漏瑚という特級呪霊を初見で祓除しきれず、それが渋谷事変での人的被害に繋がり自分は封印されてしまう。五条の強者としての驕りによる惨状は死滅回遊を通してさらに、さらに拡大していきます。「人を救う」ことを目指した虎杖と「少しでも多くの善人が平等を享受できるように」術師になった恵は、宿儺vs魔虚羅戦という大虐殺の誘因となってしまいます。

挫折と絶望の連続である人生を冷笑するかのような作者の視点。その先駆けとなったのが甚爾であること、『呪術廻戦』という壮大な皮肉の象徴のように、甚爾は思えてしまします。

 

さらに、

『壊玉・玉折』を経て単なるバトル系少年漫画に青春と挫折の光と陰を加えた『呪術廻戦』は、さらに、甚爾が抱える闇と挫折、息子恵への屈折した思いと因果が加わることで、ギリシア悲劇や歌舞伎の世話物のような深みを増したと言えます。

 

それでも甚爾が引き金を引いた不幸の連鎖、とりわけ恵少年の悲惨を思うと、甚爾には複雑な思いを禁じ得ない読者な私です。

 

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