アニメ『遊郭編』の毎週配信が終わってしまい、鬼滅ロスな毎日。第10話宇髄天元vs妓夫太郎のバトルシーンの神作画と撮影で、アニメ史を塗り替える傑作なんて言われますね。アタシ的には、ド派手な闘いの背後にある人間という生物の闇の深さとそれに翻弄される子供たちの悲惨が堪える、思い入れが一番深い『遊郭編』。その辺をジンワリ読みこんでみました。ネタバレあり
- 遊郭という苦界
- 守りたい兄たちと、孤児たちの戦い
- 炭治郎と妓夫太郎というパラレル
- 挫折しきった兄、宇髄天元の獅子奮迅
- 捨て子たちと堕姫の闘い
- TOXIC MASCULINITYと女性という救い
- 禰豆子という癒し
- 雛鶴、まきを、須磨という護り手
- 梅という救済
- 『遊郭編』の今という時における意味
遊郭という苦界
まずは、舞台が遊郭っての、よく『少年ジャンプ』みたいに小学校高学年から読み始めるような雑誌で描いたなあと感心します。
漫画では地の文章での説明、アニメでは宇髄天元が語る吉原遊郭。
「ここに暮らす遊女たちは貧しさや借金などで売られてきた者がほとんどで、たくさんの苦労を背負っているが、その代わり衣食住は確保され、遊女として出世できれば裕福な家に身請けされることもあった」なんて説明は、チョー甘すぎの売春苦界。
衣食は当然自分で稼がなければならない。働きが悪ければ最初の借金に自分の着物やら櫛・簪やら食い扶持は加算されていきます。だから、病気や生理の時も仕事は休めない。部屋持ちなんてごく少ない。大部屋住いは、屏風で隔てられた床があるばかり、ご奉仕したお客が帰った明け六つ(朝6時)に帰ってからやっと本格的に眠れ、巳の刻(午前10時)には起きて、風呂に入って身支度をし、正午からは昼見世、暮れ六つからは夜見世をこなすハードスケジュール。
食べるものと言えば飯と香の物くらいと、栄養状態も悪い。だから、結核とかも多かったし、梅毒などの性病にかかることもある。抗生物質がない時代、当然ながらこれらは不治の病なわけです。避妊とかの手段もないから、出来てしまったら堕胎する。
そんなもんだから、借金を返して年季奉公を終える前に亡くなる女たちは多かった。花魁になれる器量に生まれるなんて夢のまた夢。
「遊女は客に惚れたと言い、客は来もせでまた来ると言う」って落語にも出てくるような嘘の付き合い、身請けされるなんてごくわずか。こんな制度を作った江戸幕府って残酷!って思うけど、梅ちゃんが女郎をやってた江戸時代には遊女に偏見とかなかったのだ。
歌舞伎の花魁たちなんて見てると、『助六』の揚巻は大江戸の大スターだし、『仮名手本忠臣蔵』のお軽は身を売って主家に尽くす忠義の鑑。基本的に遊女たちは親の苦境を助ける孝行娘だったの。
ところが維新後、明治政府が同じ公娼制度を維持してるのに西洋的価値観を輸入したおかげで、遊女たちは卑しい生業につく可哀そうな女、蔑むべき女に格下げされてしまったんですね。
大正時代以降の遊女に対する評価を調べてる中で、当事者の昔語りが出てきたんだけど、酷いもんだったわ(『鬼灯火(ほおずき)の実は赤いよ―遊女が語る廓むかし』『鬼追い―続 昭和遊女考』)。
この語り手である女性は、少女時代に博打狂いの父親に性的虐待を受けて母親に疎まれ、借金のカタに遊郭に売られ、家族の生活費や、家の新築費用、妹の嫁入り支度、兄の満州渡航の費用などの無心に応えて実家を支え続けるの。なのに、やっと年季が明けて実家に戻ると弟から体よく同居を断られ、仕方ないから遊郭に戻ってまた女郎に戻り、最後は遣り手になるという...。尽くした相手の身内からただただ利用されて踏んだり蹴ったり。だからって、自殺なんてできない。失敗して死ねなかったら手ひどい折檻もあるし、後遺症なんか残ったら最低な切見世に出されたり、放り出されて物乞いになるしかないからっていう、やり切れない世界なの。
遊女たちが意地とプライドをかけて築いた華やかな外見の裏側には、家族に売られた少女たち、切り捨てられた女たちの恨みが澱んでいる。それが、遊郭と言う場所。
守りたい兄たちと、孤児たちの戦い
『鬼滅の刃 遊郭編』も、廓話のドロドロした側面をうまく回避してますね。堕姫(梅)や妓夫太郎の回想や雛鶴が閉じ込められた切見世の様子でさらりと示すだけ。
そのかわり、妹を捨てることなく守り抜きたい兄たち(竈門炭治郎・妓夫太郎)、守れなかった兄(宇随天元)と2人の孤児(我妻善逸・嘴平伊之助)の鬼に対する闘いの物語となっています。
とはいえ、人間の願望への処し方と人としてのあるべき生き方を説いて硬質な前作『無限列車編』とは異なり、過酷な環境に翻弄される兄たち、妹たち、妻たちの情念や抵抗を描いて、白黒で判断できない人生という難物を突き付ける作品。『アンナ・カレーニナ』や『カラマーゾフの兄弟』を読み終えた読後感にも近い、やるせなさが残るのね。
『遊郭編』は『鬼滅の刃』中でも最も思い入れ深いくだりの一つと、アタシ的にはなっております。
炭治郎と妓夫太郎というパラレル
皆さまもお気づきのように、鬼になった妹を何としても守るという立場では、炭次郎と妓夫太郎は同じです。戦闘の途中でガップリ四つになった2人、お互い相手の中に自分を見ていますねぇ。
だから、妹禰豆子を守り切る強さを持ってない炭治郎に対して、妓夫太郎は「みっともねえなぁ... 虫けらボンクラのろまの腑抜け、役立たず…何で生まれてきたんだお前は」と罵詈雑言を浴びせはしても、天元に対するように本気モードで殺しにかかることはできず、鬼へと勧誘を始める。
妓夫太郎を倒すチャンスを得た炭治郎は「その境遇はいつだって ひとつ違えばいつか自分自身がそうなっていたかもしれない状況」と述懐するのです。
本当に2人の差異は「ひとつ違えば」なのでしょうか?
アタシから見れば、これは優しく謙虚な炭治郎の大いなる勘違いです。2人は生まれてきた因縁から陰画と陽画のように、反対の極へと行くべく方向付けられていたと。
鬼滅世界のあるゆる鬼を生み出す原初の鬼となった鬼舞辻無惨という悪の異常値。その異常値に対してバランスをとるさらなる異常値として生まれた無敵の人、無惨を倒せる日の呼吸の始まりの剣士継国縁壱。
その縁壱の呼吸を受け継ぎ、ヒノカミ神楽として代々受け継いできた炭焼き竈門家の嫡男として生まれた炭治郎。貧しいけれども愛情あふれる大家族の中で育ち、正義感と優しさに溢れた真っ正直な少年に成長。それが無惨に家族を殺され妹を鬼にされ、「無惨を倒して妹を人間に戻す」という悲願を持つことになる。
鬼殺隊に鬼の禰豆子が成敗されなかったのは、最初に出会った柱が富岡義勇という、自分を柱だとは自覚しない、規格外の思いを持った男だったという偶然があるでしょう。とはいえ、炭治郎は無惨討伐の因果を動かす、特別な存在になるべき者として生まれ、特別な存在へと開花しつつあるのです。
炭治郎は鬼により子供時代と家族を奪われた少年。でも、
「失われた命は回帰しない 二度と戻らない 生身の者は鬼のようにはいかない なぜ奪う?なぜ命を踏みつけにする?」
と言える彼の存在は希望そのもの。その行動の背後には、圧倒的モラルと人間愛が常に存在しています。
対して妓夫太郎と梅は、人間社会の構造的歪みで幸福も尊厳も奪われた子どもたち。あまりにも過酷な偶然の積み重ねの結果として存在してます。
吉原遊郭でも最も貧しく治安の悪い、羅生門河岸の最低ランクの切見世で梅毒病みの娼婦の子として生を受けた不運。切見世というのは、病や怪我などで価値が下落した女郎に15分ほどで格安売春をさせる場所。土間と畳2畳ばかりの長屋が連なっていたといいます。そこで育った不運。
こんな状況で妊娠したら商売できない。食べていけない。本来なら早いうちに堕胎となるのですが、失敗したのか管理がいきとどいてなかったのか、妓夫太郎は生まれてしまいます。顔色が悪く、歯は形成不全、皮膚は銅色の斑状皮疹のようなもので覆われ、骨格が歪んでいるような妓夫太郎は、胎内で罹患した先天性梅毒としか見えません。そんな風に醜く疎まれる容貌で生まれてきた不運。
醜い容姿の幼子は母親から疎まれて名も与えられず、余分な食い扶持を減らすために何度も殺されそうになり、母親が身体を売るのをまじかで見ながら成長し、周囲から罵られ続け、ひもじい時には虫を喰っても生き続けます。生まれてからずっと人間以下の扱いを受けることになった不運ばかり経験してきた妓夫太郎。
並外れた美貌を持つ妹が生まれて初めて、愛や希望や尊厳を初めて知る。不気味な容貌と腕っぷしの強さを買われて用心棒のようになり、梅も遊女となって稼ぎもあがり2人で幸せに暮らせると思った矢先、梅が客に焼き殺され、自分も仇討で瀕死の重傷を負うという。「禍福は糾える縄の如し(幸不幸は交互にやってくる)」なんて諺が無効になるような、さらなる人生の不運。数々の不運の連鎖の結果として存在する妓夫太郎。
一番大事な妹を守ることに挫折した、妹を奪われた兄の妓夫太郎。この世には神も仏もない、人間すべてを呪ってやるって、アタシだって同じ境遇だったら思いますよ。だからどうしようもなく鬼になるしかなかった。
人生は自由意志による選択の結果だっていう哲学者もいますが、その選択の幅が極めて狭い、闇落ちするしかない状況ってあるわけです。
だから、生まれてきた意味付けも、育った環境も、炭治郎と妓夫太郎は正反対の方向に向かうべく存在している。でも、妹を守る意志というところでは等価な、決して交わることのないパラレルなわけです。
妓夫太郎が炭治郎に浴びせた憎悪の言葉は、全部自分が浴びせられてきたもの。妓夫太郎は、妹を守れなかった、弱かった自分への嫌悪を炭治郎にぶつけている。
でも、交わらないパラレルだから、2人で戦っていても愛憎相半ばみたいな膠着状態を起こしてしまうのですね。
挫折しきった兄、宇髄天元の獅子奮迅
妓夫太郎と炭治郎の膠着状態を破るのが、姉弟たちを一人も守れなかった、挫折しきった兄の宇髄天元だという人生の皮肉、ドラマとしての深みですねえ。
天元は忍びという社会の構造悪の枠組みの中で、毒親によって子供時代も家族の絆も、幸福に正しく生きるという権利もすべて奪われた青年。忍びの里の頭領の家柄、姉1人&弟7人の9人兄弟の長男として生まれた彼は、作中、最も陰惨な過去を持つ人物といっても過言ではないでしょう。
大正という時代の流れで一族滅亡の危機に瀕した父親は、バカ強い跡継ぎを得るために手段を択ばなかった。幼少からの、耐性をつけるために毒を盛られるというほどの過酷な修行を受け、姉弟のうち3人は10歳にならないうちに亡くなり、天元が15歳になると残った6人は覆面を付けた殺し合いへと追い込まれる。冷酷で残忍な父親が最強の跡継ぎを選別するための企みだったのでしょう。現代の常識から考えると、暴力的な虐待と洗脳。ポルポト政権下の少年兵みたいな育ち方をした天元。
2人を殺したところで弟たちと気づいた彼は衝撃を受ける。が、同じく勝ち残ったすぐ下の弟は父と同じ冷酷で無機質な人非人になり果てて、天元にも刃を向けた。自分の一族に絶望した天元は妻たちを連れて里を抜け、縁あって鬼殺隊に入り柱となる。
幼くして死んでいく弟たちを救うこともできず、知らないとはいえ2人を我が手で殺し、マインドコントロールされたすぐ下の弟を見捨てて逃げ出した。
教育という名の虐待を受けていた15歳の少年に、逃げる以外の何ができるかといういと、何かできるほどの判断も経験も持ち併せていないと結論をだすしかないのですが、姉弟を守るということに関しては挫折しきった兄であることは確かです。
そして、この兄は救えなかった姉弟を「ひと時も忘れること」ができない。殺人マシーンだった過去を悔いて、せめても贖罪に鬼殺隊で人助けをしている。
「俺の手の平から今までどれだけの命が零れたと思ってんだ」
これが、挫折しきった兄天元を苦しめる己の罪ですね。
炭治郎、善逸、伊之助、禰豆子は、自分の判断間違いで闘いの場に駆り出してしまった幼い命。天元の手のひらに入ってきた命。もう、2度と取り零したくない。
だから彼は鬼化した禰豆子を庇う。毒が回っていようと、左手が欠損しようと、身体を張って妓夫太郎から炭治郎を守り切る。譜面という知的な戦闘計算式を持ちながら、最終的な勝ちの瞬間を炭治郎に与えるために、上弦の陸である妓夫太郎にタックルをかます。
挫折しきった兄の正念場。としてみると、遊郭編の激しい戦闘に込められた情念が、ジリジリと見えてきます。
こんな子供時代を過ごしながら、妓夫太郎やすぐ下の弟のように闇落ちしなかった天元の胆力は、称賛に値いします。持って生まれたやさしさ、強さ、義侠心というのもあるでしょう。ただ天元は、そうなるべく最高の遺伝子と優れた栄養で育まれたエリート戦士でもあり、将来の頭領として帝王学も叩き込まれていたでしょう。そういう中で生まれる誇りや矜持、妻たちの愛情が天元を正しい道へと導いた。そこに闇落ちしない運命の分かれ道があったのでしょう。
挫折しきった兄は、手の平の中の命を守り切ります。左目と左手の欠損以上に、預かった命を守り切ったという点で、『遊郭編』のバトルは挫折し続けた兄のターニングポイントだったのでしょう。
かつまた、家族の在り方が大きな枠組みとなっている『鬼滅の刃』世界にあって、天元以降大きなシフトチェンジが行われます。
これまでは、親と子の情(那田蜘蛛山の累の場合)、兄と妹の愛(炭治郎と禰豆子、妓夫太郎と梅)というかゾック愛モチーフが中心となっていた『鬼滅の刃』ですが、天元以降そのは動因は兄弟の愛憎、ミスコミュニケーション(時任兄弟、不死川兄弟)だったり、兄の嫉妬(継国兄弟、善逸と獪岳 )だったりへと変換していくのです。
そう言いう点でも、宇髄天元は物語のダイナミックスの転換点と言えるでしょう。
捨て子たちと堕姫の闘い
鬼に対する個人的な恨みがないにも関わらず鬼殺隊に入った2人の人物が、『遊郭編』では天元の他に2人います。善逸と伊之助という2人の捨て子です。
猪突猛進で武勇を極めたい伊之助と違い、人を助けることで育てに恩を返し、誰からも認められる人物になりたいという善逸の入隊経緯は、天元の贖罪への意志と並ぶ、自己否定からの脱出という特異な動機です。
「夢を見るんだ 幸せな夢なんだ 俺は強くて誰よりも強くて 弱い人や困っている人を助けてあげられる」「いつでも じいちゃんの教えてくれたこと俺にかけてくれた時間は無駄じゃないんだ」
那田蜘蛛山で毒を食らった善逸の独白は、愛を知らない孤児が思い描く幸せ、対価なしには得られない幸せという考え方の悲しさを、見事に表現していますね。
そう、善逸は誰にも愛されなかった、捨てられた子ども。その幼少期は、真っ黒な無意識領域に塗りこめてしまわなければならないほど、悲惨なものだったはずです。
その悲惨さは、妓夫太郎や梅と変わらなかったかもしれない。ですが、善逸はネガティヴな感情を無意識領域に押し込め、信じたい人を信じ、桑島師匠に救われ、炭治郎や伊之助という親友を得て善き人へと育った。
その彼が梅の鬼化状態である堕姫と闘うというのも、因縁深いものがあります。
恨み辛みに凝り固まった妓夫太郎に育てられ、鬼となってからは妓夫太郎を内包し、彼の意識の支配下で動く堕姫。2人の一体感は「自分が不幸だった分は幸せな奴から取立てねぇと取り返せねえ」という堕姫のセリフに妓夫太郎の声が被ることでも、よく分かる。堕姫は、妓夫太郎の怨恨を受け継いで、怒りと悪意に満ちた花魁、禍々しい鬼となりきっています。
堕姫は何故こんなに怒っているのでしょう?13歳の時には遊女にとして身を売っていた。そんな身の上を恨んでいるのでしょうか?
そうではないようです。吉原遊郭という世界した知らない梅=堕姫にとっては、金を稼ぐ=身体を売ること。それは当然のこと。アタシが読んだ資料にも、10歳余りでいっぱしの遊女になる娼婦の娘のエピソードがありました。
堕姫は遊郭の価値観を肯定し、そのヒエラルキーの頂点に立つ自分を誇っている。「この街じゃ女は商品なのよ、物と同じ」「売ったり買ったり壊されたり持ち主が好きにしていいのよ」「不細工は飯を食う資格ないわ、何もできない奴は人間扱いしない」
堕姫が憎悪する対象は、簪で片目を刺した侍のように兄の妓夫太郎を蔑み、虐げた者たち。遊郭でぬくぬくと生きていこうとした人間時代を邪魔した者たち。鬼となり美しい人間どもを捕食する兄妹の幸せに横やりを入れる鬼殺隊。「人にされて嫌だったこと苦しかったことを人にやって返して取り立てる」が信条なのです。
「自分がされて嫌だったことは人にしちゃいけない」という善逸の信条とは真逆のものです。だから、堕姫が禿に怪我をさせた件もあり、2人は必然的に戦うことになる。
とはいえ、善逸と堕姫という見捨てられた子どもたちは同じように心の底に闇を抱えてる。そこで2人の戦いも膠着状態になる。神速を出しても、善逸は堕姫の首を斬りぬくことができないのです。
この平衡状態を破るが伊之助というのも、頷けます。伊之助は捨て子ではあるけれども、大自然に育まれた野生児。俗な人間が抱える嫉妬や恨み、悲惨の感情とは無縁な、純粋無垢な存在。だから、彼には欲にまみれた堕姫の首が簡単に斬り落とせるのです。
それでも、捨てられた子どもたちが戦わなければ居場所を得られない社会は、苦しくやるせないものがあります。
TOXIC MASCULINITYと女性という救い
少年たち、青年たちは大切なもの守るため、欲しいものを手に入れるため、暴力的に戦わなければならない。
Toxic Masculinnity(毒性のある、有害な男らしさ)という言葉がメディアに定着して久しいです。これは、暴力性・攻撃性として表出する男らしさを示す言葉です。当然のことながら、戦闘漫画では「有害な男らしさ」は全開になります。
妓夫太郎の支配下にある堕姫(男性化した女性)もこの暴力的攻撃性の虜です。殺人マシーンとして育てられた天元、悪鬼殲滅を誓う炭治郎、戦いがすべての伊之助も、この男らしさを炸裂させながらバトルに身を投じます。
鬼=悪である妓夫太郎と堕姫が首を斬り落とされた後、鬼殺隊の3人も妓夫太郎の血鎌の毒で死にかけます。
女性が男性を癒す地である吉原遊郭に壊滅的なダメージを与えた戦闘員たちが、あたかも内的な毒性に犯されたかのような大団円。
何故このように考えるかというと、善逸だけがこの毒を免れているからです。善逸の技「霹靂一閃」は鬼の首を斬る瞬間意外に抜刀を行わない、徒らな暴力性を伴わないもの。技を繰り出す善逸は光の中で留まるかのような、静謐な様相を呈しています。
普段の善逸もデレデレとした女好きではありますが、花冠を造ったり、女の子に甘えたりと、攻撃的な男らしさとは無縁です。さらに、この戦いの最中も善逸は女装を続けています。男性性(アニムス)と女性性(アニマ)のバランスする中間地点にいる善逸だけが毒の被害を被らなかったと考えるからです。
雄であるということは、暴力性・攻撃性につながり易い。その結果として、彼らは致命傷を受けてしまうのです。
とはいえ、吉原は女性が癒しを与える地。
「有害な男らしさ」を乗り越えるものとして女性による救済が出てくるのです。「永遠に女性的なるものは我々をして高みへと導く」とゲーテが『ファウスト』の中で語った力です。
物語に即して、この力を見ていきましょう。
禰豆子という癒し
鬼として全面覚醒して凛々しく戦う禰豆子は、すごくカッコイイ!
のですが、遊郭編で禰豆子が持つ最強の力は「癒し」ではないでしょうか?
自分が非力なために伊之助と天元が殺されてしまった、善逸を犠牲にしてしまったと思い込み、「みんなごめん…」といいながら気絶した炭治郎に、記憶の中の禰豆子が語りかけます。
「謝らないでお兄ちゃん、どうしていつも謝るの?」「貧しかったら不幸なの?綺麗な着物が着れなかったら可哀想なの?」「そんなに誰かのせいにしたいの?お父さんが病気で死んだのも悪いことみたい」「精一杯頑張っても駄目だったんだから仕方ないじゃない」「人間なんだから誰でも…何でも思い通りにはいかないわ」「幸せかどうかは自分で決める 大切なのは"今"なんだよ 前を向こう」「一緒に頑張ろうよ 戦おう」「謝ったりしないで」「 お兄ちゃんならわかってよ 私の気持ちをわかってよ」
一人で責任を背負い込もうとする自罰的な炭治郎に、あるがままに人生を受け入れ、今ある自分を肯定することを諭す、そして未来へと立ち向かわせるパワフルな言葉。
その言葉を受けて炭治郎は気持ちを切り替え、圧倒的な力量差のある妓夫太郎と向き合えたわけです。
炭治郎は禰豆子を救うために鬼殺を始めたのですが、折れそうな丹次郎を支えるのは禰豆子だという、その癒しと救済の力は計り知れません。
妓夫太郎の毒で死にかけた炭治郎、伊之助、天元を救ったのは禰豆子の血鬼術「爆血」だったというのも象徴的です。
禰豆子の血鬼術は、人の生命を奪うためのものではなく、救うためのものだった。
禰豆子は女性という救済の象徴のような存在です。
雛鶴、まきを、須磨という護り手
禰豆子&炭治郎同様に、一見すると女性が男性に守られているけれども、よく見ていると女性が男性を守護しているのだという関係性は天元と3人の妻である、雛鶴 まきを 須磨の間にも成り立ちます。
戦闘に当たって、妻たちは天元のバックスを守り抜きます。まきをと須磨は救護・避難活動を行い、隠しの到着を待たずに一般人を守り抜きます。雛鶴は弱った身体ながらも、上弦殺傷能力はないけれどもスローダウンさせられる藤の毒入りクナイランチャーを発射して、時間稼ぎを行います。
一家で一個師団ともいうべき宇随家ですが、妻たちの精神的な支えはそれをはるかに上回り、天元という男をまさに生かしているといえるでょう。
弟2人を手にかけて、自分の一族に絶望して忍びの里から妻たちを連れて逃げ出した天元。「俺は地獄に落ちる」と自暴自棄になる天元を泣き(雛鶴)、怒り(まきを)、噛みついて(須磨)、前を向かせたのは妻たち。
多分贖罪のため鬼殺隊に入った天元に、雛鶴は言います。
「上弦の鬼を倒したら一線から退いて、普通の人間としていきましょう」「忍として育ち、奪ってしまった命がそれで戻ってくるわけではありませんが」「やはりどこかできちんとけじめをつけなければ、恥ずかしくて陽の下を生きて行けない」「その時四人が揃っていなくても、恨みっこなしです」
なんとも肝が据わった言葉です。
守るべき命の順番は「まずお前ら三人次に堅気の人間たちそして俺だ」と天元は言いますが、真っ当に生きている堅気の人間は世の大半を占めるので、天元自身の命の優先順位は恐ろしく低い。炭治郎を守る戦い方からし判断しても、天元は捨て身で仲間を救い、自分の命を惜しまない人物だというのが分かります。
嫁の命は一番に守るけれども、自分の命にはお構いなしの無謀な夫に、雛鶴は
「贖罪を必要としているのはあなただけではありません。妻である私たちも同じです。あなたが命を賭けるなら、私たちも命をかけて戦います。私たちも自分の命を惜しみはしません。だから、あなたも自分を大切にしてください」と、忠誠を誓いながら牽制をしているのです。
加えて、「100年以上も叶わなかった上弦の鬼を倒すことを目的にしましょう。その不可能を可能にしたら、自分を許して生きていきましょう」と、決死の贖罪だけでない、生き残る未来を示しているのです。
この言葉を理解したら、天元は妻たちを守っているつもりだけれども、実は妻たちが天元を守り支えてもいることが分かるでしょう。
それだけの決意があるから、遊女に身をやつして遊郭で潜入捜査することも、鬼に身バレしそうになったら、切見世に身を落とすことも厭わない。
なんとも凄まじい情愛です。妻たちは天元の守護女神たちと言えるでしょう。
梅という救済
愛と癒しを惜しみなく降り注ぐ禰豆子や天元の妻たちと比較すると、残酷で口汚く兄に依存するばかりの鬼である堕姫は、ただただ破壊的な存在に見えます。
とはいえ、人としての梅には素晴らしい救済の力を持っています。
「鬼になったことに後悔はねえ」「俺は何度生まれ変わっても必ず鬼になる」と言いきり、成敗された妓夫太郎は鬼のままの姿で真っ暗な地獄への道をたどる。
ただ、妹には他の生き方があったはずと案ずる妓夫太郎が妹の罪業をすべて自分のものとして背負ったためか、堕姫は人であった時の梅の姿で冥途にやってきます。
自分にはついて来るな、明るい光のさす方、多分浄土の方へと向かえと背を向ける妓夫太郎に梅は縋りつきます。
「離れない!!絶対離れないから」「ずっと一緒にいるんだから!!」「何回生まれ変わってもアタシはお兄ちゃんの妹になる絶対に!!」「アタシを嫌わないで!!叱らないで!!一人にしないで!!」「置いてったら許さないわよ」
永遠に妓夫太郎と共に生きる、地獄へもついていく。梅か叫んだ言葉が妓夫太郎を変えます。妓夫太郎も鬼から人の姿に戻り、梅を背負って地獄の業火の中へと去っていく。
地獄の責め苦の中でも永遠に共にあるという、梅の絶対の愛が妓夫太郎の怨恨と憎悪を断ち切り、鬼から人へと戻した。行く先は地獄でも梅の愛で妓夫太郎の魂は救われたと理解すべきでしょう。
『遊郭編』の動因となった、根深く巨大な怨恨自体が浄化されていくような兄妹の終焉。きっと、多くの皆さまが一番感動されたシーンかと。
愛は世界を救う!!!ですね。
『遊郭編』の今という時における意味
奪われた少年、青年たちは居場所を得るために戦わざるを得なく、妹や妻たちは彼らを救い続けるという『遊郭編』何故、アタシめはこんなに『遊郭編』にこだわるのか?
それは、世界がガラガラと音を立てて壊れていく現状とこの作品が重なって見えるからだと思います。
令和3年度人口動態統計では6万7千人もの超過死亡が記録され、今年1月、2月にはさらなる超過死亡が見込まれています。ボコボコ、健康だったはずの人達が突然死、大量の死を見込んんで「広域火葬計画」が練られている。某チューブを見ていると、最近は里親制度のCFが目につきます。
働き盛りの親御さんが亡くなり、家族を奪われた子どもたちがどんどん増えているからだと、肌で感じます。
構造的な社会の歪みが子どもたちの安心できる、安全な居場所を奪っていると実感します。
流行病の恐怖に怯える人たち、益があるのかどうか分からない予防措置なるもの。それが社会に及ぼす影響で鬱になったり、いらついたり、原因の分からない病いで苦しむ人たち。どんどん減速していく景気。生きる意欲をなくす人たち。
とても危うい世の中、私たちの心の奥底で怒りが鬱積しています。
プーチン大統領という憎しみの対象を与えられて、爆発するその怒り。ロシア在住の皆さまと語り合う機会が多かったアタシは、プーチン大統領とKGBの圧政の話もよく聞いていました。実に恐ろしいことを沢山聞きました。
とはいえ、徒らに怒りを爆発させることが何かの解決につながるのか?苦しむウクライナの人々を憎しみが救えるのか?
ここは冷静になって、歴史を学び、戦争が起こる仕組みを知り、だれがこれで得しているのか見極める必要がある。
善悪も禍福も、単純には割り切れない。人々を動かているダイナミックスは、見た通りではない。冷静になること、俯瞰して見ることの重要さを再認識できる『遊郭編』。
現実社会には、永遠の女性という救済は存在しません。でも、最終的に人を救うのは闘いではなく愛であることを教えてくれる『遊郭編』。とても、大切な作品です。