海外エンタメ 千一夜物語

もの好きビルコンティが大好きなゲームオブスローンズを中心にゴシップ話も交えて、海外ドラマ・エンタメを一人語り・・・

ルトガー・ハウアー追悼 「ブレードランナー」を振り返る

f:id:biruconti:20190807150541j:plain

7月19日にルトガー・ハウアーが亡くなった。今年は2019年。当たり役だった「ブレードランナー」のレプリカント、ロイ・バッティの享年と奇しくも同じことになった。「ブレードランナー2049」を頭から否定していたルトガー・ハウアー。彼にとって、また、多くのマニアにとって「ブレードランナー」=ロイ・バッティ、ロイ・バッティ=ルトガー・ハウアーだったと思う。

今回はお盆追悼の意をこめて、アタシの究極のヒーローであるロイ・バッティを中心に、「ブレードランナー」を振り返ってみたい。

 

 

 

 

SF映画史上最強のモノローグ

I've seen things you people wouldn't believe.

お前たち人間には信じられないような光景を俺は見てきた。

Attack ships on fire off the shoulder of Orion.

オリオン座の肩のあたりで戦艦が宇宙燃え上がるのを

I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhauser gate.

タンホイザーゲートに近い暗闇でCビームが煌くのを

All those moments will be lost in time...

そんな瞬間もすべて時の中で失われていく

like tears in rain... Time to die.

雨の中の涙のように・・・死ぬ時が来た。

 

高層の工場群が炎を吹き、酸性雨の降りしきる陽の射さない近未来都市、ビル郡の下には歌舞伎町のように猥雑な街並と人々が犇めき、レプリカント産業を牛耳るタイレルコーポレーションのピラミッドみたいな巨大建造物が総てを押しつぶすように屹立している。

環境破壊と極端な貧富の差だけは現実の今と変わることない2019年のLA。

 

フィリップ・K・ディックのSF『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原案とし、シド・ミードをヴジュアル・デザインに、ヴァンゲリスを作曲に迎えたリドリー・スコット監督作品のダークな近未来作品『ブレードランナー』。

SFとフィルムノワールが合体したナラティヴ、今ではサイバーパンクの代表作であり、近未来世界の退廃と幻滅を体現する映像スタイルの先験的SF映画とされているが、

リリース当時はヒットにいたらなかった。同時期公開の『E.T.』のような分かりやすさ、主演のハリソン・フォードによるSF活劇を期待していたオーディンスの支持を得られなかったと記憶している。

 

ところが何度も見て内容を反芻できるVHS発売により、この映画の真の先駆性が理解されるようになり、カルト人気が次第に高まっていった。

 

中でも、フォード演じる主役のデッカードではなくルトガー・ハウアー演じる敵役の殺人レプリカント、ロイ・バッティが死に際に語る冒頭に引用した『tears in rain』のモノローグの評価は高い。

これに込められた、宇宙の詩的壮麗さと無常観が人々の心を打ち、この台詞を解説する独立した解説ページがwikipediaに各国語で掲載されるまでになっている。

 

ロイ・バッティが何者で、このモノローグが何を語っているのか、掘ってみたい。

 

 

ニーチェ的ヒーローの投影としてのロイ・バッティ

 宇宙空間での過酷な労働に従事するために、遺伝子工学により、アンドロイドに替わる人造人間として生み出されたレプリカントたち。

最新系のネクサス6型 レプリカントには人間を凌駕する強靭な身体と俊敏さ、人間並みの知性が与えられていた。知性を持つ人造人間たちには次第に感情が芽生え、奴隷労働から解放されるために脱走し、反乱を起こす可能性がある。

危険な感情が育つことを阻止するため、彼らは4年で寿命が尽きるように設計されていた。

 

ネクサス6型戦闘モデルであるロイ・バッティは、ウィリアム・ブレイクの詩を引用し、天才科学者エルドン・タイレル博士をチェスで打ち負かすほどの知性を備えている。

驚異的な身体能力とスピードと知性を兼ね備え、彫刻的に屈強なボディを持ち、金髪碧眼のロイはニーチェ的な"超人"の投影に他ならない。

 

ルトガー・ハウアーを見た原作者のフィリップ・K・ディックは、「冷酷で、アーリア的で、非の打ち所がない」と、絶賛している。

 

ニーチェ的な"超人"は西洋的な"知ること"による自己認識を否定して、果てしなく自己超脱していく。それでも、"あらゆる小さなもの、卑小なものは戻ってくる"。

 

ロイ・バッティという超人は、同時に小さなものでもある。

この超人には4年の寿命しかない。ということは、4年に満たない人生経験しかない幼児と情緒的には同じレベルなのだ。

 

人間よりもはるかに優秀であることを自覚し、にも関わらずその寿命が4年の短さで尽きようと知った4歳児はどうなるだろう?

怒りとフラストレーションに駆られて、過激な方法で延命を求める。その行為が引き起こすさらなる悲劇は考えない。何故なら4歳児は衝動のままに行動するものであるから。

 

ここに、ロイ・バッティの原点がある。

 

 

反オイディプスとしてのロイ・バッティ

 ロイ・バッティと3人の仲間は、植民地を脱走して人間の乗組員を殺害してスペースシャトルを奪い、延命策を求めて地球にやって来た。

そこで、レプリカントの清掃人(屠殺人)であるブレードランナーのリック・デッカードが彼らを追跡することになる。

孤独な遺伝子工学技術者のセバスチャンに仲間の慰安婦モデル・プリスが取り入り、彼らの脳を設計した生みの親であるエルドン・タイレル博士と親しいセバスチャンを通してロイは博士の家に入り込むことになる。

 

ロイ・バッティは父親を探していたわけではない。レプリカントには生物学的な親はいない。それでも、ロイはタイレル博士を父親と呼ぶ。

I want more life, father. 俺はもっと長く生きたいんだ、父さん。

 

延命の技術的な不可能を説明するタイレル博士の知識に、的確な質問をするロイの優れた知性に感銘を受けて博士もロイを息子と呼ぶ。

 

タイレル博士:You were made as well as we could make you.

お前は我々の最上の被造物だ。

ロイ: But not to last. でも、寿命が短すぎる。

タイレル博士:The light that burns twice as bright burns half as long - and you have burned so very, very brightly, Roy. Look at you. you're the Prodigal Son, you're quite a prize.

短時間で燃え尽きるものほど、輝きは強い。お前は、輝かしく燃え上がっている。ロイ、ご覧、"放蕩息子"よ。お前は、なんという栄冠だろう。

 

延命策を考案できない自分の非力を嘆く代わりに、短い生涯の栄光を讃える。なんとも非情な父親だ。

 

ロイ:I've done... questionable things. 俺は非道な行為を犯してしまった。

タイレル博士:Also extraordinary things; revel in your time.

多くの偉業もだ。お前は時代の反逆児だ。

ロイ:Nothing the God of biomechanics wouldn't let you into heaven for.

生命科学の神が天国に迎えてくれるようなことは、何もしていない。

 

自分の延命を求めて、犯してきた殺戮や破壊行為を悔いるロイ。それを汲み取ることもなく、ただただ賞賛するタイレル博士。

絶望と怒りで博士の両目を潰して殺害するロイ。

 

息子による父親殺しは、ソポクレスの『オイディプス王』以来西洋文学における悲劇の典型の一つとなっている。

ところで、オイディプスは託宣によって「父親殺しと母親との近親相姦の罪を犯す運命にある」ことを知って育ての親元を逃げ出して実の父親を殺して王位につき、王妃である実母との間に子供を儲けるが、本当の出自を知って狂乱し自分の両目を潰すことになる。

未来を知ろうとすること、自分の出自をしろうとすること、過剰な知ることへの欲望が生んだ悲劇、眼を潰すことは、これ以上何も知りたくないという意思表示と解釈されている。

 

既に過剰な知性と知識を持ち合わせているロイ・バッティは、何かを知ろうとしているのではない。単純に、生き延びる術を求めているだけだ。その過程で犯した行為が罪悪であることも理解し、後悔という情念に囚われ始めている。

ロイが経験している短い生の恐怖や苦悩も、罪の意識もタイレル博士は理解しようとしない。

タイレル博士の殺害の仕方は、「何も知らない、知ろうとしない。知るに値しない」残酷な父親への断罪である。

この点で、ロイの父親殺しは、オイディプス王の父親殺しと真逆の結果を導くことになる。

 

 

ワグナー的ヒーローの投影としてのロイ・バッティ

冒頭のモノローグに出てくる、タンホイザーゲートもCビームも意味は説明されていない。ゲートの方は何らかのポータルだと推測できるぐらいだ。

 

その代わりタンホイザーという名称は、中世のゲルマン伝説へのロマンをかきたてる。

リヒャルト・ワグナーによる楽劇のタイトルロールとして名高い騎士タンホイザー。異教の女神ウェヌスの洞窟で放蕩に耽っていた騎士は、情欲の罪を悔い改めるためローマ教皇に懺悔するが、枯れ木の杖に葉が生えない限り赦しはないと拒絶され、絶望してウェヌスの元に戻り、地獄行きになりそうになる。硬直し、荒廃したカソリック教会倫理への批判と解釈できる内容だ。

 

ロイ・バティが訪問したとき、タイレル博士は教皇のような白いローブを纏っている。贖罪を求めるようなロイの告白を、偉業として礼賛するタイレル博士は、宗教よりも質が悪い、資本主義的な弱肉強食の原理を肯定しきる存在だ。

 

一見凶悪な殺人鬼に見えていたロイ・バティが、実は、レプリカントの知性や感情という人間的資質を無視して奴隷化し、極端な貧富の差と環境破壊を齎す資本主義社会の歪みを露わにする、タンホイザーのような存在であることが、短い引用の中から垣間見える。

 

 

ルシファーの投影としてのロイ・バッティ

 また、冒頭のモノログはタイレル博士の所在への最初の手がかりとなったレプリカントの眼球製造者ハンニバル・チュウに向けたロイの2つの台詞と対になっている。

 

Fiery the angels fell 燃え上がるように天使たちは堕ちた

deep thunder rolled around their shores 岸辺には深々と雷鳴が轟き

burning with the fires of Orc オークの炎で燃え上がった

 

そして、チュウが造った眼球で見たものを、チュウにも見せてやりたかったと捨て台詞をロイは言い放つ。

 

はじめの詩句はウィリアム・ブレイクの『アメリカ ひとつの預言』から、ロイが自分なりにアレンジして借用したもの。オークというのは、ブレイクの神話体系の中で、残酷な暴君である神に反逆する堕天使ルシファーのような存在だ。

 

残酷な神は無論タイレル博士であり、ロイは神に反逆するルシファーということになる。ルシファーは人間に知恵を与えて罰せられたが、ロイはレプリカントたちに感情と生命、人間としての権利を与えようとしている。

 

ハリソン・フォード演じるデッカードは、自分の行為を深く反省することもなく、権力の手先となって脱走レプリカントを処刑し続けるが、ロイは幼稚な凶暴性を示すと同時に、奴隷状態のレプリカントを解放する革命者として行動していたのが分かるくだりだ。

 

 

キリストの投影としてのロイ・バッティ

タイレル博士の"放蕩息子"という表現やルシファーの投影に見られるように、『ブレードランナー』は聖書の引用や暗喩に満ちている。

 

トドメはタイレル博士とセバスチャンを殺害した後、3人の仲間を殺されたロイが犯人のデッカードを追い詰めて壮絶なバトルを繰り広げる大団円。

圧倒的な優勢の中で身体が動かなくなりかけ、余命が尽きてきていることを悟ったロイは自分の手のひらに太い釘を刺し、痛みで神経を蘇らせようとする。

 

ロイ・バッティに投影された多様な象徴が見えてくると、この行為はキリスト磔刑のメタファーであることに気づく。

 

そして、死を前にしたロイが、屋根から落ちたデッカードに奴隷として生きることの恐怖を伝えてから救い、平和の象徴である鳩を空に放つことの意味も理解できる。

 

冒頭のモノローグの解釈に戻ろう。

 

戦闘用の奴隷としての悲惨な状況にも関わらず、ロイは普通の人間の想像を絶するような壮麗な世界も目撃してきた。それらの光景は思い出としてロイの中に堆積し、生命を慈しむ情念を生み出していった。だが、彼の成し遂げた偉業も、荘厳なイメージの記憶も、彼の死とともに跡形もなく消え去ってしまう。雨の中の涙のように。

死を前にして、ロイはあらゆる命の尊さを慈しんでいる。そのように感じて、それを詩的な言葉で表現できるロイはデッカードよりも遥かに人間らしい。

感情を、共感軸を持ったとき、レプリカントは人間になる。人間とは何であるかを、デッカードに伝えて、ロイは殉教しようとしているのだ。

 

言葉を換えれば、ロイにとって自己超脱の最終地点は、非人間的社会に対して人間性を訴える自己犠牲ということになる。

 

ルトガー・ハウアー讃

西洋的神話大系のさまざまなヒーロー(半神)が乱反射するロイ・バティというキャラクターを見事に具現化したルトガー・ハウアーの凄み、詩的知性は超絶、素晴らしいといつも思う。

 

詩的知性というのは、冒頭のモノローグは脚本家デヴィッド・ピープルズの説明的な台詞をルトガー・ハウアー短く抜粋した上に、「like tears in rain... Time to die.」の一節を加えたところにある。

 

他にも、大好きな出演作はあるが、ロイ・バティ役は傑出していた。

 

役者と役柄の奇跡的なめぐり合わせというべきものか。ハウアーもロイ・バティの半分は自分、自分の半分はロイ・バティと言っていた。

 

このような奇跡にめぐり合うのが、映画や芝居、バレエを見る楽しみだと、アタシは思っている。