海外エンタメ 千一夜物語

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ベン・ウィショーと『パフューム ある人殺しの物語』という奇跡の映画

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トム・ティクヴァ監督の2006年作品『パフューム ある人殺しの物語』は、至高の香水を生み出すために殺人を犯し続ける調香師を描く。醜悪で残酷で、とてつもなく美しい映画。アタシ的には当代随一の役者、ベン・ウィショーと出会った記念すべき作品でもあり・・・

DVDを抱えて、時々見ては物思いに耽る、そんな、この映画の魅力を掘ってみたいかと。

 

 

 

18世紀の悪臭と悪意に満ちた世界の魅力

 冒頭近く、18世紀パリの魚市場の克明な描写に驚かされる。仮設の屋台のような魚屋の店が並ぶ。

 

ベルサイユというトイレ設備のない王宮を誇っていた当時のフランス。

ローマ帝国のように下水道や公衆浴場の整備から都市計画が始まるという概念を持たない、公衆衛生への配慮を欠いた文化。上水は水売りに頼り、中途半端な下水道は民衆の用をなさず、道路脇の溝や窪みには糞尿が溜まっていたという。

 

薄汚い道。魚類は氷で冷やされることも洗われることもなく、ただ放置され、捌かれていく。

当然のことながら、市場に犇めく民衆は薄汚れた髪や肌、擦り切れたような服装で、中には歯の欠けた男などもいて、その不衛生と悪臭は画面からリアルに伝わってくる。

 

 『パフューム ある人殺しの物語』映像で香りを感じさせるという不可能に挑戦する映画であるが、悪臭の描写では大変な成功をおさめているといえるだろう。

 

蛙という姓を持つ醜悪な男

18世紀は理性の世紀と呼ばれている。ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなどが啓蒙思想を説き、その思想はフランス革命にもつながっていく。

とはいえ、公衆衛生をかえりみない社会には基本的人権という概念もない。

 

貧しく飢えた民衆は、酷薄な日常を残酷に狡猾に生き抜いている。

 

主人公の殺人鬼ジャン=バティスト・グルヌイユは、1738年、魚市場で魚屋の女房の腹から生まれる。子沢山の女房は屋台の下に新生児を放置し、嬰児殺しの罪に問われて絞首刑になる(人道的なギロチンは、まだ発明されていなかったのだ)。

 

孤児になったジャン=バティスト・グルヌイユは、国からの養育費目当てでマダム・ガイヤールが運営する孤児院に預けられる。言葉の覚えも遅く、天与の圧倒的な嗅覚でしかコミュニケーションできない、周囲と交わることない異質な少年は誰にも好かれない。現代であれば自閉症にくくられてセラピーを受けるのだろうが、18世紀に生を受けたグルヌイユは集団の中で、ただただ孤立して育つ。

13歳の時に7フランで、皮なめし職人に売られ、平均寿命15~16歳という過酷な労働に耐えて生き抜き、すぐれた鼻の才覚を認められて、調香師バルディーニに奉公することになる。

 

ところで、グルヌイユの意味は蛙である。そして、グルヌイユは蛙のように醜い、やせこけて、ぞっとするようなところがある男と原作では描かれている。

醜く異質な少年は、誰からも愛されない。グルヌイユも人間というものに果てしない憎悪を抱えるようになる。

 

そして、グルヌイユには体臭が全くない。

Soul of being is there in scent

「存在するものの魂は香りのなかにある」という作品の哲学に照らし合わせると、グルヌイユには魂がないことになる。

 

そして魂を、存在としての本質を持たないグルヌイユは、自分の存在の証として「嗅いだ者すべてを魅了し、愛さずにはいられなくする」究極の香りを作り出すために、無垢な乙女達を次々と、無慈悲に殺害していく。

原作のグルヌイユは魂を持たない"人ならぬ者"、純粋な悪意として描かれている。

 

 

天使的なベン・ウィショー

醜悪な人間の純粋な悪意が引き起こす連続殺人の物語を映画化しても、見る人はいないだろう。そこで、連続殺人鬼になる危険性とそれでも観客を魅了するカリスマを持つ若い俳優が必要となる。

当然のことながら、主役のキャスティングは難航していた。

 

「無垢な天使と殺人鬼を同時に体現できる役者」

まだ無名だったベン・ウィショーを主役に推薦するに当たって、プロデューサーのベルント・アイヒンガーはこう語った。ベン・ウィショー主演の舞台「ハムレット」を見たティクヴァ監督は、彼こそが主役に相応しいと即決した。

 

アタシもこの「ハムレット」を撮影したヴィデオを数分みたことがあるが、子供がむずかるような暴力性と震えるような傷つきやすさを抱えた、壊れた青年のハムレット像は、ショッキングなほど新鮮で、脳裏に焼き付いている。

 

ベン・ウィショーには作品のナラティヴを変える力があると前回も書いたが、この作品でもその資質は存分に発揮されている。

当時のベン・ウィショーは20代の半ばで、優雅に長い首と極端に華奢な体つきだった。

皮なめしのタンニンに黄ばんだ皮膚と重労働と虐待に歪んだ、猫とか猿のような身体性の表現が、本来の身体性と交わって、何か、人ならぬものの気配があった。

 

皮なめしの作業場からパリの街並みを初めて訪れた時、糞尿から香水まで、何百、何千という香りを嗅ぐ様子の無垢な恍惚。

赤毛のプラム売り娘の体臭に引き寄せられて、それを味わい尽くそうとして殺してしまう時も、そこには悪意はない。人と人が出会って、触れ合うということの意味、人の命の重さが理解できない、香りだけに固執するこわれた心が除くだけだ。

 

ダスティン・ホフマンが演じる調香師バルディーニに取り入るために、ライバル店の人気の香水を調合する時、お人形を抱きしめる少女のように香料瓶を抱えるようす。バルディーニに見せる従順な身体言語。その総てに人恋しさが溢れていた。

 

アウトサイダーの内なる怒り

では、原作のグルヌイユとは似ても似つかない人恋しい孤独者がどうして連続殺人犯になり得たのか?

 

その答えは、かなり普遍的なもの、常に除け者にされているアウトサイダーの怒りだ。

香りを閉じ込める術を学ぶために訪れたグラースの地で垣間見た美貌の娘ローラのえも言われぬ体臭に取り付かれて、その屋敷に忍び込んで貴族の一家の交友を覗き見る時の、羨望と怒りの表情は忘れられない。

とはいえ、彼のストーカー行為に性的な感触はない。ローラという理想のベースノートを見出して、12人の乙女の体臭からなる究極の香水づくりへの妄執にかられているだけだ。

 

何故、グルヌイユが美女たちの香りを集めたのかという質問に

「多分、彼は美しい女性になりたかったんじゃないかな」と、ベン・ウィショーが答えていたのを覚えている。

 

根っからの除け者が美女の香りを身にまとうことで愛される存在に変身する願望。

それまで辛く当たってきた職人頭のドリュオーが、制作途中の"至高の香水"を嗅いで、突然グルヌイユに優しくなる。その時のグルヌイユの勝ち誇った喜び。

 

原作のナラティブは、どんどん変わっていく。

 

ところで、若いウィショーはこの底知れないアウトサイダーの怒りに、どうチャネリングしたのだろうか?

最近のインタビューで、20代の前半は「自分がゲイである」というアイデンティティを受け入れられず、自己嫌悪でセラピーを受ける必要があったと語っている。

アウトサイダーとして生きる苦悩はウィショーの内面から滲み出していたことを察して、妙に納得してしまった。

 

http:// https://www.pinknews.co.uk/2019/03/24/ben-whishaw-gay-negative-effects/

 

 

 天使は、究極の愛を求める

ローラを殺害し、"至高の香水"の香水を完成したところで逮捕されたグルヌイユ。

試しにその香水を使ってみると、獄吏は豪奢な衣装を差し出し、死刑執行の屠殺人は足元にひれ伏してグルヌイユを無実の天使と崇める。

 

集まった群衆は愛の香りにのぼせ、グラースの街は巨大な乱交の場となる。

 

だが、どれほどニセの体臭で人々の愛と憧憬を集めても、グルヌイユは肉林の宴に加わることはできない。

何故なら、彼自身は体臭を欠いた空白だから。彼の中に群衆の一人となる要素、凡庸な人としての要素はないのだから、彼らの一人になることはできない。

 

この香水をもってすれば、世界中の人々の愛を征服して、あらゆる権力を得ることも可能だ。

だが、どこまでも"ともに在る者"ではあり得ない自分を知った絶望と怒りで、グルヌイユは、生まれた場所の魚市場に戻って自己破壊へと突き進む。

 

原作のグルヌイユにあっては、この自己破壊が彼の悪意の頂点と解釈できた。

 

映画のグルヌイユはまぶたを閉じて味わい尽くすように香水を頭から被る。強烈な愛の香りに我を忘れた貧民たちは"天使"グルヌイユを貪り喰らうことになる。それを覚悟したグルヌイユが一瞬見せると恍惚と諦念。

 

喰らい尽くされることで人々の一部になる、永遠に"ともに在る者"となる。そう読み取れる幕切れだった。

 

 

ベン・ウィショーという稀有な役者を得て

底知れない悪意の物語が、究極の愛を求める物語に変貌した。

『パフューム ある人殺しの物語』は、アタシにとって奇跡の映画だ。

 

www.biruko.tokyo