エンタメ 千一夜物語

もの好きビルコンティが大好きな海外ドラマやバレエ、マンガ・アニメとエンタメもろもろ、ゴシップ話も交えて一人語り・・・

映画『ボヘミアン・ラプソディ』の微妙にイヤな後味を掘ってみた

f:id:biruconti:20190715155028p:plain

昨年末から、爆発的な興行収入をあげげている映画『ボヘミアン・ラプソディ』。

ラミ・マレックのアカデミー主演男優賞受賞の記事を書きながら、映画本体については何も書いていないことに気づいたアタシ。ハッキリ言って、後味悪い、好きになれない映画だったのでした。

今回は、その辺を掘ってみました。

 

 

クィーンファンになれなかったアタシ

映画の最初の方、BGMでクリームの「Sunshine of Your Love」が流れていますね。クィーンが胎動し始めた頃のロックシーンは、そういう感じだったのです。

ドラムスもベースもヘヴィで、技巧的なギターが被るブルージーなサイケデリック・ロックからレッド・ツェッペリンに代表されブルージーなハード・ロックが誕生する。音楽的には、本当にスリリングな時代でした。

 

で、「レッド・ツェッペリン I」の第1収録曲、超絶ドラムスのイントロから始まる「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」を聴いた途端にZEP狂になったアタシ。アタシにとってZEPはリードギター、ベース、ドラムス、フロントマンのどこをとっても遜色ない、絶妙のバランスを持つ至高のバンドでした。

 

ZEPの優れた楽曲構成とかを考え始め、英語も分かるようになって下らない歌詞が多いことも気づき、興味がワーグナーとかに移行してしまい、ちょうどロック離れを始めた頃に登場したクィーン。

 

「ボヘミアン・ラプソディ」とか「伝説のチャンピオン」とかを耳にすると、そこにある不可解な苦しさとか疎外感というものに心を打たれ、とはいえアタシにはあまり意味のない歌も多く、フレディのキャンピーなパフォにも新鮮味が感じられず、意識はしていたけれど熱狂したことがない存在でした。

 

 

ラミ・マレック好き

「MR. ROBOT/ミスター・ロボット」エリオット・オルダーソン役の怪演を見て、すっかりファンになってます。

プログラマーとして人並み外れた能力を持っているけれども、スキゾな兆候があり、頭の中で起きていることと現実の区別がつかない、どこかで現実と乖離してしまった不安定な人物。社会を根本から変えようという理念と野望を持ちながら、普通に暮らせない不安と疎外感に悩まされている・・・

この難しい役をリアルに感じさせる演技力。感服していました。

 

繊細すぎるベン・ウィショーに行きかけていたフレディ役がマレックに決まった時は本当にうれしく思いました。

マレックなら、フレディの図太さも、ワガママっぷりも、繊細さも、孤独も演じきれると確信したからです。

 

期待を裏切ることなく、フレディならではの存在感、ヴァイヴを存分に振りまくパフォ、堪能しきりました。

 

クィーン狂いではないわたしには、全体がよくできたミュージックヴィデオみたいで本当に楽しめました。

 

 

なんで、後味が悪いのか?

クィーン狂の皆様は、いろんな事実が食い違っているとご立腹ですね。

"狂"ではないアタシとしては細かい事実関係は気になりません。むしろ、焦点の絞り方のエグサに気を取られます。

 

 高名な映画評論家ロジャー・イーバートも書いてましたけど、なんか微妙にホモフォビックなんですね。

あの、ブライアン・シンガーが監督なのに~~~~!?

ってか、少年に対する数々の性的虐待疑惑で村八分状態なシンガーを関わらせちゃったから、反対に慎重になるんですかね?

だったら、直々に製作をやってるブライアン・メイとロジャー・テイラーは、最初からシンガーを指名しなければいいんじゃないかと・・・

 

で、どの辺がホモフォビックかというと

フレディ最大のロマンスは、メアリー・オースティン相手だったって描き方、凄く違和感があります。最初はカノジョだったけど、分かれてからは最高に信頼できる親友であり姉妹のようになっていた重要人物。それでも、彼女にささげられた歌にばかり力点が置かれてしまうとバランスが崩れるわけです。

クィーン最大のラブソング「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」は、ジム・サットンと深い恋愛関係になった1985年にリリースされてます。HIVの問題が浮上したのは1986年ですから、二人には本当に健康で幸せな時期があってこの名曲が生まれたわけです。その幸せっぷりは、いろんなインタビューでも語られています。

 

「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」という恋愛讃歌が焦点から外されてしまうと、ヘテロじゃない恋愛は黙殺した方が良いという趣旨が汲み取れてしまうのです。

これは、アタシの思いすごしじゃないと思います。

ヘテロで結婚して子供も持つメンバーたちが、ゲイバー通いやパーティ三昧に明け暮れるフレディの不品行を諭す場面があります。

まるで、ヘテロは正しくてゲイは間違っているみたいなシーンでした。

 

そして、フレディの個人的なマネージャーでゲイのポール・プレンターを大敵に仕立て上げています。

 

確かにフレディとポール・プレンターには性的関係があって、プレンターはそれを脅迫のネタにしていた悪人ではあります。

とはいえ、プレンターがゲイカルチャーの暗黒面にフレディを引き込んだというのは、説得力がありません。

 

フレディもポールもエイズで死んじゃってますから死人に口なし、みたいなナラティブ展開に見えてしまいます。

 

 

問題はフレディ自身でしょう

常に生産され続ける精子を放出しなければならないという身体的性質を持つ男同士の性的関係は、妊娠・家庭づくりという重荷がチラつく男女間のものより、欲望の発散は奔放でありえます。

 

それを基本に過激なゲイバーやバスルームのカルチャーは生まれ、HIV/エイズの蔓延があったのは事実でです。私も、多くの尊敬する人々を失いました。

 

だからといって、ゲイ=乱交という考え方は偏りすぎです。ヘテロでもヤリ逃げを自慢したがる人や風俗で稼ぎを使い尽くす人はいます。ゲイでもパートナーに忠実に生きている人やストイックな人はいます。

 

誘惑にどう対応するかは個人の意志の問題です。この点、この映画は偏っていると言えます。

 

フレディには、オースティンとの交際時代も含めて、何人もボーイフレンドがいました。それも、どちらかというとモノガミーな付き合い方です。

ステージを降りたら静かな性格だったらしいフレディは、落ち着いた関係を望んでいたようです。でも、ハットンと出会うまで長く続く関係は持てなかったのです。

 

というのも、

ゲイカルチャーのキャンピーな要素をパフォーマンスの核にして、ゲイなナイトライフを楽しみながら、フレディはメディアにも家族にもカムアウトできずにいたのです。

 

イギリスで成人の同性愛行為が合法化されたのは1976年。フレディは1946年生まれですから、人生の30年間を自分の生き方が罪悪であるとする国で生きていたわけです。両親は誇り高く保守的なパールシー教徒。そういう生き方をしてきた人にとって、自分を全面肯定するのは、至難の技だったでしょう。

若いフレディは、交際の中でパニック症状を起こすことがあったと伝えられています。根深くホモフォビアが内在化していたということでしょう。

その反動で内的葛藤を暗示する楽曲で攻撃的なまでに超ゲイなパフォをするという代償行為に走った。それでバランスをとっていたとしたら、納得できる心理です。

 

ところで、交際相手の家族や公的な立場を否定されたボーイフレンドたちは、どう感じたでしょう。

自尊心のある人ならば、このように存在否定は手ひどい侮辱、受け入れることは難しい。それで破局になったケースも少なくないようです。

 

この重大な存在否定を補うためにフレディは何をしたのでしょう。恋人たちに家や高価な車を買い与えていたのです。言い換えれば、フレディは愛情を金で買おうとしていたのです。

 

こういうパターンの恋愛を繰り返していたら、失恋のリバウンド期には、映画に描かれたような自己破壊的なパーティ三昧になっていてもおかしくありません。

 

 

フレディの総てが彼の芸術なのに・・・

 

フレディは複雑な人物でした。その彼の生き方を責めているのではありません。

 

むしろ、彼の迷いや苦悩、怒りや失望、喜びや感動の総てが彼の芸術に結晶した。だから、フレディの音楽は深い感動を呼ぶのだと。

だから、一人の大悪人に罪を負わせるのでなく、フレディの内的葛藤を掘り下げることに焦点を当てたら、素晴らしい映画作品が出来上がっただろうと言いたいのです。

 

そういう脚本であったら、自身もカムアウトすることに苦しんだベン・ウィショーの降板もなかっと思います(キャラとしてはマレックで正解ですが)。

 

ブライアンもロジャーも大変な商売人です。だからこそ、クィーンはアダム・ランバートをフロントマンにして現在も大規模なコンサートを世界的に行うという、破天荒な成功を続けているのだと思います。

 

ですが、フレディがフレディであることに、もっとリスペクトを払っ映画をた作って欲しかったと、苦い思いに駆り立てられるアタシなのでした。

 

これがイヤな後味のキモであります。

 

 

www.biruko.tokyo