
昨年の映画『国宝』の大ブームも去ったので、そろそろ私がディスってもいいかなと。だってさ、男子校の体育会みたいにイケメンが頑張れば一世風靡する女形が生まれるなんてことはないんだから、ディスるよ。勿論、原作は読んでません。純粋に映画としてディスらせていただきます。
芸道物として格が低いんだよね
極道の息子・喜久雄が上方歌舞伎の名代である花井半次郎に引き取られて、早熟な恋愛ありのの体育会系に頑張りのの、坊ちゃんの俊介との友情やライヴァル関係ありのの波乱万丈な人生の果てに女形の人間国宝になる。ちゅうのがコンパクトに纏められて、よくできたエンタメ映画だったとは思います。
なんですけどね、アタシなんて昭和の芸道映画を見て育ってるのよ。あの頃の映画界ってのは、長谷川一夫、市川雷蔵、萬屋錦之介、大川橋蔵なんていう、門閥やら血縁やらに縛られて歌舞伎界ではビッグになれなかった天才達が大ブレイクしてたの。歌舞伎役者じゃないけど長唄の名門・杵屋出身の勝新太郎、若山富三郎なんて人もいた。
本物がゴロゴロしてたのよ。芸道映画も本物だったの。だから『国宝』では満足できない。
長谷川さんの『雪之丞変化』とかね、花道を歩いてくるだけでカリスマが溢れてた。お顔とかはご事情があって崩れてはいましたが、所作や居住まいの美しさとかが格別。宝塚の『ベルサイユのばら』演出を任され、一分の隙も無い型の美を展開して耽美世界を造られた方だから、美意識はとてつもなかったんです。その美と醜の相克に執念を感じさせるものがあり、『雪之丞変化』という復讐譚を恐ろしいように盛り上げてました。
その長谷川先生に時代劇の美の在り方を師事していた京マチ子さんの『偽れる盛装』も凄かった。野心家で舞台への執念に凝り固まった芸妓・君蝶が、男達を手玉に取って絞るだけ搾り取って、パトロンに高価な衣装やら髪飾りを用意させて温習会に出る。出演の直前に君蝶のせいで破滅した男が刃物を持って襲い掛かる。豪奢な衣装を纏ってその手から逃げ惑い、コンクリの道を走る姿が舞そのもので、君蝶の芸格の高さと執念が恐ろしい程に伝わってくる。凄い映画でしたよ。
『国宝』だと喜久雄と俊介の『曾根崎心中』のシーンで、喜久雄の涙がアップになるじゃないですか。あれは舞台表現としては何も伝わらないのね。歌舞伎役者は大向こうにも届くように演じなければならない。だから、全身で表現するの。
台詞とかアップとかじゃなくてね、そこで動いただけで、その人の芸がどれだけ凄いか伝わって来る。それがね、本当の芸道物なんですよ。
一年くらいイケメン俳優に芸事やらせてモネ... 普段の歩き方とかチンピラみたいだし。男らしさを強調したくての演出家もしれないけど。踊りやってる人って、背筋がピンとしてるでしょ。で、歩き方にクセがない。
だから、女形としての歩き方自体できてないし、身体の体勢変える時に素が出るし、道成寺の鐘に上る姿は男でしかないし、ごまかせない格の低さが見え見えなんですよ。
修業時代に青春してる暇あるんかい!
喜久雄は天才的な踊り手的な描写があるけれど、15歳までは極道の息子として育ってるし、その文化的なギャップを埋めるのに苦心惨憺したハズ。なのにその描写もない。
アタシが普段接してるのはバレエなんで、こちらの話を例に引いちゃいますけど、今やバレエの帝王ともいうべきマリインスキーのキム・キミンさん。最初の頃は回って飛んでは素晴らしいんだけど、ロマンチシズムを解さない、バレリーナさんへの配慮が欠落したダメパートナーだったんですよね。我々ファンも大批判でした。で、キミンさんはロシア語を鍛えてロシアの文化、ロシア的な情熱のありようなどを学んで、今では最高のロシア的紳士になってます。あれだけ踊れるのに、フィナーレでは決してバレリーナの前に出ず、自分にプレゼントされた花束を全部パートナーに奉げるという徹底ぶり。だから、”ロシアの魂”が必要とされる演目なんかも、回転やジャンプを迫真の心理描写に注ぎ込める。
つまりね、天才が死ぬほど努力して初めて世紀のスターは誕生するのです。で、その努力は舞台や踊の稽古場だけでは完結しないんですよ。
血筋を超えて当代随一の女形になった方と言えば、人間国宝の坂東玉三郎さん。学生時代から踊りは当然のことながら、書道、生け花、茶道、長唄、常磐津、清元、和楽器などのお稽古に明け暮れてたという話を伺ってます。学校から帰る時間も惜しんで、芝居の幕が上がるギリギリまでお稽古されていたという超ハードなライフスタイル。
玉三郎さんと言えば十四代目守田勘弥丈の芸養子。自ら見込んだ才能だから舞台の上のあらゆる所作に完璧な様式美とエレガンスを持つべきという徹底した英才教育ですねえ。血統第一主義の梨園でブレイクするには、周りの役者さんがぐうの音もでないくらい完璧じゃないといけない。この果てしない努力に養父子二代の執念を感じます。
そこをね、きちっと描いて欲しかった。
ちんたら恋愛してんじゃないよ!
喜久雄も俊介も女性との恋愛事情が華やかで込み入ってますね。ヒモじみてたり、玄人遊びだったり、相手に犠牲を強いたり、いろいろ。でも、その女性を見る視線が普通過ぎるんですよ。
喜久雄も俊介も女形なんでしょう。女形だから持ってる独自の視点てのがあるんじゃないですか?その描写も欠落してますね。
大衆演劇を代表する女形の梅沢富美男さんはプレイボーイで有名だけど、その芯にあるのは芸のためという真情。「女と遊ばなきゃ色気のある芝居は出来ない」という母上の言葉も影響したかと。玄人の女性と遊んで、生身の熱や媚態を皮膚感覚で得て芸に昇華していく感じですか。
そういう、生身の男である部分と観察して盗む芸人の部分が一体となってる複雑な女性関係。情人でありながらどこかで相手を客観視してる恋愛関係の裏切り者。
そこを描かなきゃ嘘でしょ!と、なるわけです。
玉三郎さんのようにストイックな芸術家はまた違いますかと。女性という生き物を冷徹に観察し、分析し、自分の型へと再構成、変容させるのかと。
なんかのインタビューで
「女優さんも女性であることを再構築しているわけですから、そこは同じ」というようなことを言われていたので、ああやっぱりと思ったのですね。
不思議なことにというか、当たり前にもというか、ご養父の勘彌さんの最初の奥様、新派の初代水谷八重子さんもほぼ同じこと言われてました。
「女優は女であってはならないのです」ってね。
八重子さんも恐ろしい程の名女優でしたよ。『婦系図』のお蔦の「別れろ切れろは、芸者の時に言う言葉…」なんて名台詞は一人の女の恨みを超えて全女性の怨恨が籠ってる感じで、本当に怖かった。
なんていうんですか、芸に向ける業の深い人達が、何故か勘彌さんの周囲には集ってるんですよね。
玉三郎さんが結婚したいお相手はいたという述懐で、
「この方と結婚したら芸が磨かれるだろうと思ったのですが、そういう理由で結婚すべきではないな」と、やめたという。もし
結婚してたら、人の心とかないんか問題ですよ。
本当にとんでもない業。
そういう、女形というトンデモない業を描いてないんですよ、『国宝』って。
女形という怪物
勘彌さん周りの怪物的名優と言えば若い時代の恋人、大成駒こと六世中村歌右衛門丈は外せませんね。
『国宝』には「美しい化け物」って言葉が出てきますが、映画見てても何だか分かりません。大成駒は美しいし、怪物だったんですよ。本当に見た瞬間にそれが分かる。
田中泯さんはダンディですが、白塗りで女形の拵えをした万菊さんは美しくない。大成駒はお年を召しても美しい女性の幻影を作り出す、超自然的な力があったのですね。
例えば、最盛期の『娘道成寺』で花道を急いでくる出だし、細面で華奢な骨格で、見るからに美しい女性なんですね。藤間流の美意識が結晶化したような、優雅に弧を描く身体、重い衣装なのに体重がないように揺らめいて、足弱というしかない覚束ない足取りで、手が花弁のようにヒラヒラ揺れて、何もかもが美しいのです。その手弱女が鐘に上って蛇になる。見得を切ると、本当に蛇身に見えて恐ろしい。子供のアタシは震え上がりましたよ。
だから、美しい化け物なんですね。美というヴィジュアルでノックアウトしてくれないと納得できないのです。
大成駒の怖い程の芸話は沢山あります。
『伽羅先代萩』の乳母・政岡が、若君を守るために我が子の命を差し出して「でかしゃった、でかしゃった…」と呟く。その時の唇や声の震え。『東海道四谷怪談』の岩が産後の肥立ちが悪く、乳も出ない病身の瘦せ細った我が身を庇うような身体言語。そういう総てから立ち上って来る、深い怨恨の気配。だから、大成駒の岩はめちゃくちゃ怖かったのです。
そういう気配が客席に伝わって、空気を支配するから、稀代の名優。まさに「美しい化け物」なんです。
昭和初期までの女形には、女性を完全にトレースし、文字通り女として生きるという方法もあり、この代表が大成駒でした。いろんな男性と恋に落ちて、でも本当の女性ではないから絆は曖昧で裏切られて…ため込んだ傷が歌舞伎という型を通して、生身のものから普遍的な女性の怨恨へと変容する。
一人の人間の妄執が歌舞伎の芸術としての究極の表現へ、普遍的な悲劇へと昇華する。八重子さんの「女優は女であってはならない」という覚悟と地続きの狂気であると思います。
そこまで描かないと、『国宝』にはならないのです。
天才ならでは苦悩
天才だからこその苦悩も、映画が描いていない部分です。
玉三郎さんのキャリアを通して、天才だからこそ通らなければならなかったご苦労も振り返ってみます。
まずは、映画では意味不明だった万菊さんが象徴してた女帝歌右衛門丈という巨大な壁ですね。
勘弥さんが養子にした若き才能だからといって。今では格違いの元恋人の子飼いに過ぎない玉三郎さん。だから、大成駒の当たり役は遠慮するのが礼というもの。なので、『京鹿子娘道成寺』 の白拍子花子、『籠釣瓶花街酔咲 』の八ツ橋、『助六由縁江戸桜』 の揚巻などの成駒屋さんならではの華やかな主演は避けて、『鳴神』の雲の絶間姫 や、『毛抜』の錦の前のような成田屋系の赤姫のお役を若い頃は盛んに演じておられました。
そういう中で、女形にしては抜群に長身の美しいラインとフレッシュな美貌で人気を固めていかれましたねえ。
この壁を乗り越えるには方法論自体をかえるしかない。だから、仕舞の要素を取り入れて、背の高い長いラインを活かした、静止的で彫刻的な舞踊スタイルを生み出した。この完成形が国際的にも評価の高い玉三郎の『鷺娘』だったわけです。
あらゆる方向にアンテナを張って創意工夫する。芸術を革新していく天才の宿命。玉三郎さんも大成駒も、小児麻痺罹患というハンデを背負っての踊り手としての精進、ここにも因縁めいたものを感じます。
新派に出演すれば二代目水谷八重子さんの、脚が長く9頭身の圧倒的なスタイルの良さと、生身の女性の色気が立ちはだかる。
ベジャール作品に出れば、上裸の男性ダンサーのアスレティックな圧が立ちはだかる。
映画に出れば、毛穴まで大写しになって女性としてのリアリティが問われる。
三島由紀夫の『サド侯爵夫人』に主演すれば、アタシのような半可通がコメディ・フランセーズの圧倒的な言語空間に勝るものなし、なんて言ったりします。
それを踏み台に、美輪明宏さんが怪しいエロスで決定打と言われた『黒蜥蜴』に挑戦して、初代の水谷八重子さんに三島が求めた、言語劇としての構築性と格調を再生した。
と、天才が藻掻きながら多くの壁に挑戦してきた軌跡が見えるのですね。
だいたい、なんで女形になりたいの
「自分は内向的な性分だから気持ちを表に出すのが苦手。だから舞台の上で初めて解放されるものがあるんです。お金とか名声のためじゃなくて、そういう思いを受け止めてくれる観客のためなら、(バレリーナという職業が要求する)犠牲が払えるんです」と、話してくれました。
例えば、大成駒にお話を伺うことはできないけれども、あのとてつもない怨恨の炸裂を目撃してしまうと、立役ではありえない複雑なパトスを女形として炸裂させないといられない方だったのだろうと、察せられるのですね。
だって、ギリシア悲劇の時代から荒れ狂うパトスはヒロインの独壇場。能もしかり。そして、ギリシア悲劇も能もヒロインを演じたのは、仮面をつけた男性だった。
玉三郎さんを見ていると、普通のファションでは満足できない圧倒的な美意識が感じられるのです。
成田屋の赤姫の枠から踏み出して、『桜姫東文章』の主演では伝統の強い色合いを破った、あるかないかの淡い桜色の衣装が美しくて、陶然としました。『与話情浮名横櫛』」のお富とかの世話物を演じられた時にも、裏地や半襟に萌黄とか藤紫の中間色を使ってらしたんですね。歌舞伎の原色使いに飽きてたアタシなぞには、それが眼福で。役柄の心理もグラデーションになるような感じで驚嘆しました。
これが可能だったのは、若手の頃から自ら京都の染め職人や織元のもとに熱心に通い詰めるクリエイティヴな情熱あればこそ。
そういう徹底した美しさへの拘りが、明治の美人画みたいな色彩と造詣の地唄舞『
刘宇さんは『薬屋のひとりごと』の壬氏のようなポニーテールに、ヒラヒラした薄物の時代衣装、旦角(中国の女形)芸の真髄である蘭花指とか眼羞を含んだしなやかな舞とストリート系ダンスのアクセントを融合して、唯一無二の芸風を築いてトップアイドルになった人ですね。楽曲『未容』では旦角の発声で歌う部分もあり、その芸の融合っぷりには驚くべきものがあります。
とにかく、出で立ちが美しいのですね。
で、その美しい衣装をコンサート毎にフルとっかえするという大盤振る舞い。
こういう人を狭いジェンダーの概念に閉じ込めて置くなんて冒涜だって思わせる気概と創造性があるのです。
天才の孤独
美しい布地を見て「キレイ」ですますのではなく、糸の撚り方や太さ細さ、染料の組み合わせやわずかなムラが創るグラデーション、光の当たり方による陰影や動いたときの空気まで、手練れの職人と同じような視座を持てるから、コラボができる。
こういう孤高の精神風土を持った人々だと思うのです。
独り酒を酌み今を憂う『酌』。戦場で亡き友を偲ぶ『関山酒』。落剝した芸妓が亡き夫を偲んで琵琶を弾く『琵琶行』。自分を真に理解してくれる魂の友は稀で、一期一会であるという意の『知音』。
これを納得させる完成度が役者さんに見えないと、映画自体が陳腐になってしまいます。
尊敬するロシアの至宝ヴィクトリア・テリョーシキナが…って、テリョーシキナの『愛の伝説』を見るほどに、ああ成駒屋とアタシは思うんですが。
そのテリョーシキナが、「プリンシパル・バレリーナには、なるべくしてなる、持って生まれた素養があります」と言っておられました。