萩尾望都氏のエッセイ『一度きりの大泉の話』が巷で大騒動ぎ!萩尾氏と竹宮惠子氏が共同生活をしていた貸家の"大泉サロン"解体というか、両氏の関係を決裂させた事件が描かれていて、「どっちが悪いの?」犯人捜しみたいなレビューが溢れ返ってますが、アタシが読んで一番驚いたのはその渦中で『小鳥の巣』が、どんどんパワーアップしながら完成していったということ。ということで、この大好きな名作を読み込んでみますかと...
- 未来へと開かれた閉じた世界
- 「盗作したのでは」という疑い
- 『小鳥の巣』第1回の"萌え"要素
- バラ・温室・転入生が機能し始める第2話
- 深化する作品世界
- 『小鳥の巣』と少年愛
- 前進する時間と止まる時間、死すべき子ども
- 寄宿学校という舞台
- すべて小さな箱の中
未来へと開かれた閉じた世界
それは
中洲にありーーちょうど教会の
塔を舳先として波をわけ進む
船のように見える
これは『小鳥の巣』の1コマ目、最初の文章。その絵柄は、文章通りの中洲の教会を空撮のようなアングルから描いたもの。映画版『ウェスト・サイド物語』の冒頭の空撮のような俯瞰図。遠くへと延びていく大きな河。
『ポーの一族』『メリーベルと銀のばら』と、シリーズの中核をなす長編前2編の冒頭は、霧に閉ざされた村であり森という閉塞感に満ちたものでした。それらとはうって変わった、開かれた光景に眼を見張りました。
「それ」は中洲にある男子寄宿学校、西ドイツのガブリエル・スイス高等中学。
1コマ目に続くのは、この長編の主人公キリアンが調べ物をする図書室。いきなり、学校という閉じた空間に引き戻されます。窓辺で羽ばたく鳥。落下する少年の幻像。閉じた空間の孤独とミステリーが第1ページで読み取れます。
とはいえ、キリアンのモノローグは舞台である1959年の世界情勢、母国ドイツの東西分断へと展開し、少年の心は外の世界に開かれていることが分かります。
次の身開きページでは、全編を通しての主人公であるエドガーとアランを転入生として迎えるガブリエル・スイスの生徒たちの様子が、かなりスラップスティックに描かれ~
さらにページをめくると、『小鳥の巣』全編の見開き扉(上のイラスト)。学校の全景、『ポーの一族』全編を通じた主役であるバンパネラ(『ポーの一族』特有の吸血種族の呼称)エドガーとアランのアップ。生徒たちに被る、大空を羽ばたく鳥たちの群れ。
扉の中洲は、まさに小鳥の巣に見えます。生徒という雛鳥たちが、知識や新しい経験という餌を求めて口を開けてひしめいている小鳥の巣。閉ざされた世界だけれど、小鳥たちは成長してここから飛び出す日を待ちかねている。隔絶しているけれど、未来に向かって開かれている世界の象徴的描写。
『ポーの一族』は、梢の木の葉や風の動きさえ感じさせる描画が素晴らしいと思っていましたが、やや貴族的・静止的なこれまでの長編と比較すると、少年たちが駆け回る靴音や床の振動さえも感じさせるダイナミックな感触に溢れている『小鳥の巣』。
見事な見事な冒頭だといまだに思います。
「盗作したのでは」という疑い
"中洲の学校"というモチーフを延々と語っているかというと、竹宮氏が萩尾氏に『小鳥の巣』は自分の盗作ではないかとという詰問をしたという『一度きりの大泉の話』のエピソードと、これが関わってくるからです。
『小鳥の巣』連載第1回を読んだ竹宮氏と彼女のブレインの増山法恵氏が、"大泉サロン"から転居したマンションに呼ばれ、
「なぜ『小鳥の巣』を描いたのか?」
「なぜ、男子寄宿舎ものを描いたのか?」
「なぜ、学校が川のそばにあるのか?」
「なぜ、温室がでてくるのか?温室でバラの栽培をしてるけど」
「なぜ、転入生がやってくるの?」
「あなたは私の作品を盗作したのではないのか?」
と、問いただされたというエピソードです。
竹宮氏としては、彼女が"初の少年愛マンガ"として発表したいという心づもりで用意していた『風と木の詩』の盗作ということになるようです。
一つ屋根の下に住んで、増山氏が勧める映画や本を同じように読み、クロッキーブックを見せあっていたという萩尾・竹宮両氏なので、パーツが被るのは当然ありうることだと、一読者には思えます。
萩尾氏は同系列の『トーマの心臓』の書き始めが、『風と木の詩』のクロッキーブックを見せてもらった時期より早いことなどを記載されていますが、竹宮氏には異論があるかもしれない。
でも、一読者にとって大きな問題はどっちが先にパーツを使用していたかではなく、そのパーツがいかに機能しているかということです。
例えばマドレーヌという凡庸な菓子の描写はこの世の中に数えきれないほど存在しますが、"du petit morceau de madeleineひとかけらのマドレーヌ"と聞くと、文学ヲタは「プルースト的記憶の問題ね」と反応してしまいます。
というのも、プルーストが『失われた時を求めて』の冒頭で、マドレーヌを菩提樹茶に浸した味わいが過去の記憶を引き出し、膨大なできごとが水中花のように広がっていくという画期的心理メカニズムの描写を、あまりにも見事な長文でしたためてしまったので、マドレーヌ=プルースト的記憶という観念連合が文学オタの脳内に出来上がっているからです。
パーツが単に雰囲気づくりをする大道具や小道具なのか?
そうではなく、主題を構成する題材の一部として欠かせない要素、モチーフとして機能しているのか?
読者はそういう視点でパーツを判断しています。そして、圧倒的に後者を支持するのです。
"中洲の学校"というのは『小鳥の巣』が小鳥の巣であるための不可欠な要素です。この点から考えると、"学校が川のそば"を盗用というのはとんでもない不用意、読解力不足としか思えません。
『小鳥の巣』第1回の"萌え"要素
上の盗作非難事件が起きたのは、『小鳥の巣』第1回31ページが『別冊少女コミック』4月号に掲載され、第2回を入稿した頃と書かれています。
ですから、第1回を読んだところで竹宮氏・増山氏は行動を起こしたことになります。
「(少年愛のことを)あなたは知らない...なのに、男子寄宿舎ものを描いている。でも、あれは偽物だ。...だから描かないで欲しい」というようなことを増山氏から言われたことも萩尾氏は記しています。
萩尾氏は、自分は"少年愛"を描いてはいないと語っています。
増山氏が言う"少年愛"がどうのように定義されるものなのか私にはわからないのですが、微妙なニュアンスから"性愛を含む少年間のロマンティックな関係"というのが増山氏の"少年愛"なのかなと思われ、であれば萩尾氏の主張もうなずけます。
ただ、第1回31ページまでを読むと、エドガーとアランの美少年っぷりや、2人が流麗にワルツを踊る姿、消滅した妹のメリーベルを忘れられないエドガーを独り占めしたいアランの孤独などが印象的なので、少年愛的な萌え要素をフックにしているのは確かであると思います。
とはいえ、ワルツに被るエドガーのモノローグは
昔はもっと
たくさんのことを知っていたのだけれど
たとえば
あの幸福な婦人や銀の髪の少女や小さなロビン
こうしていと時はもどるのに
みんなどこへいってしまったのだろう
なぜ今 今
ここにいないのだろう
と、『ポーの一族』ならではの失われた過去への詠嘆に満ちています。
アランがメリーベル似の少女の肖像画入りの懐中時計を歴史の老教師から盗むという事件も起きます。
第1回を熟読すると、『小鳥の巣』が少年愛に括り切れる作品ではないであろうこと、
中洲の学校というパーツの機能っぷりを考えると、「転入生」「温室」「バラ」というパーツもビシッと組み込まれていくであろうことが察せられます。
バラ・温室・転入生が機能し始める第2話
第2話(文庫版の63ページまで)になると、バラ・温室・転入生というパーツが物語の必須な要素として機能し始めます。
バラはバンパネラにとって、人に次ぐエナジー供給の食糧。温室を管理する同級生のマチアスに懐中時計を盗んだと気づかれ、マチアスが大事に栽培する濃紅のバラが咲いたら還すと約束したアランは、そのバラを捕食して枯らしてしまいます。
バラはアランとマチアスをつなぐモチーフです。
犯人捜しの目的で温室に集まった生徒たちは春雷に閉じ込められ、稲光が明滅する中でエドガーは反対に、第1ページで示唆された生徒ロビン・カーの死にまつわる犯人捜しを始めます。このシーンの光と闇の描写は驚くほどスリリング。
また、これは魔夜峰央のパロディでもお馴染みのマザーグースの童謡「誰が殺したクック・ロビン」が登場する名場面でもあります。
転入生というのは、謎めいた存在です。その彼らがバンパネラだというのが怖い。さらに、彼らが転入してきた理由は、ロビン・カーを探し出して仲間に加えるためだったこともここで明かされます。だから、ロビンの復讐を狙っているのです。
温室で2人だけになると自分がバラ荒らしであることを告白して、アランはマチアスを反対に誘惑します。もちろん、マチアスにとってキスだと思われた行為は、アランにとっては捕食です。
ただ、吸血鬼のエネジー捕食の行為は官能的でなものです。
陽光溢れるのどかな場所であるはずの温室が、なぜかエドガーとアランの異質性、異質であるゆえの残酷さ、バンパネラであることの闇を開示する場所となっていくのです。温室を舞台とすることで、明と暗、死と生、善と悪、異質とノーマルのコントラストが強烈に印象付けられていくのですね。
見事なモチーフ使いというしかありません。
深化する作品世界
"盗作非難"事件があり、竹宮氏から「もう家に来ないで欲しい」と萩尾氏が告げられて大泉サロンは解体します。
この決裂の後、萩尾氏は貧血や心因性視覚障害に陥ります。スランプで萩尾氏に嫉妬していたと『少年の名はジルベール』で告白している竹宮氏も、体調を崩し自律神経失調症になっていたといいます。双方にとって、これは恐ろしく苦しい事件だったのですね。
ところで、事件後の心理的に追い詰められた状況で描かれた『小鳥の巣』第3部(40ページという記載もありますが文庫版だと106ページまでの44ページ掲載に見えます)、最終回第4部31ページは失速するどころが、加速しながら密度と深度を加えていきます。
生身の萩尾氏は「私がいたらない人間だから嫌われる」と自分を責めていたとしても、創作者である萩尾望都は、自分の作品に対する愛と矜持から心底怒っていただろうとも拝察します。大切な自分の創造物なのだから、パーツ1つも譲れないと。第3回冒頭のアランの眼も、今まで見たことのないような怒りを示しています。
「『11月のギムナジウム』ぐらい完璧に描かれたら何も言えませんが」という竹宮氏の言葉を受けて…
『小鳥の巣』を『11月のギムナジウム』に匹敵する、もしくは、それを超える作品にしようと、苦しむ自分すら冷徹に観察対象にしながら萩尾氏は作品の完成度を上げていったとしか思えません。
ということで~~
お山の大将の正義感に見え、怜悧なエドガーと対立していたかのようなキリアン。
彼はドイツ分断の際の難民で、越境する時に母親は殺され、東ドイツにいる父親の消息も定かではないという困難な人生を送る少年。イギリスからの孤独な転入生として、同情を寄せてくるロビン・カーに反感を持ちながらも惹かれていた。そのロビンをいじめの対象にして孤立させてしまった、死なせてしまったと後悔し続けていることが判明します。
ロビンの最後の言葉が「Angel coming I'm here. 天使がきた!ぼくはここだよ!」だったと悟って、幼いロビンに自分たちが天使だと信じさせ、天使を待ち焦がれさせて死なせてしまったと後悔するエドガー。
一見正反対に見えていた2人の少年が、一人の少年の死を巡って同じ悲しみを共有しています。なぜなら、2人はそれぞれに孤独な少年だから。
そして、ロビン・カーの死にまつわるエドガーの言葉の中で、『ポーの一族』がなぜ生まれなければならなかったのか、なぜ14歳のバンパネラが生まれなければならなかったのかの中核となる動因が語られます。
世の中にはすこしばかり神経が細いために
育たない子どもがたしかにいるんだよ
ロビンばかりでなく、妹のメリーベルや養母の老ハンナを思いやり続けたエドガーも、拝金主義の親族や友人たちを忌み嫌ったアランも、あまりに優しく、またはあまりに純粋な「すこしばかり神経が細い」子どもだったと言えるでしょう。
天使や妖精の夢を見る内なる子供を、私たちは大人になる過程で抹殺しなければならなりません。内なる子どもを殺せなかったら、私たちは育たずに死んでしまうか、『はるかな国の花や小鳥』のエルゼリのように閉ざされた世界で生きるしかないでしょう。
もしくは、『グレンスミスの日記』のエリザベスのように、過酷な人生のおりおりにポーの一族にまつわる話を読み続けて現実逃避をする。
私たち読者は、少なくともエリザベスの立ち位置にいます。ここでのエドガーの語りは『ポーの一族』という物語のメカニズムをも語る、実に意味深い文節と言えるでしょう。
『小鳥の巣』と少年愛
ギリシアとローマ、日本だったら中世・戦国時代と江戸期、近代であれば稲垣足穂か村山槐多かと、少年愛といっても時代と場所、個人によって意味するところが異なるので、少年愛というのはなんとも判断が難しい問題です。
増山氏も萩尾氏も、萩尾氏は少年愛を描いていないというのですが、ヘルマン・ヘッセが『車輪の下』で、トーマス・マンが『トーニオ・クレーガー』で描いた、思春期の少年同志の仮性恋愛的な濃密な友愛が少年愛(クナーベン・リーべ)の一典型であると考えると、『小鳥の巣』は、この正当な後継者に見えます。
さらに、『小鳥の巣』の少年愛的要素は、一見少女のように可愛らしいバンパネラ少年アランを中心に描かれています。
長編第1作の『ポーの一族』では、メリーベルの亡くなった恋人ユーシスに代わるお相手としてエドガーが選んだ少年として登場するアラン。
なのですが、『小鳥の巣』第2回でメリーベルにソックリの少女の肖像が入った懐中時計をエドガーに見せた後に沼に捨て
メリーベルだって
ロビン・カーだってどうでもいいじゃないか
ぼくのことだけ考えてくなきゃいやだ!
と、泣き叫びます。
アランは自分のものにしたくて盗んだメリーベルの肖像を捨てるのです。メリーベルがエドガーと自分の間に常に存在し、エドガーの心の半分を占めているとアランは考えています。ですから、この行為は自分の中のメリーベルを象徴的に排除して、エドガーにも同様の排除を迫る行為。これは、少なくとも友愛を超える独占愛です。
『小鳥の巣』のアランは、かなりエキセントリックな存在です。
エドガーも含めて、他の少年たちは社会の枠組みの中で"自分は何者であるか?何をなすべきか?"という問いかけに向き合っていますが、アランはエドガーしか見ていない、エドガーと自分だけの生活が幸福で、エドガーが自分だけを見ていてくれないと孤独になってしまう。社会性が欠落した少年です。
ひ弱で、エドガーがいなければ生きていくことができないアランはで、不安定で我がままです。エドガーの関心が他の少年たちに向かうと、自分は血を見ることさえできないのに「半ダースほどぶち殺して」などと、平気で言い放ちます。人を殺した記憶がないバンパネラならではの気軽な言葉。殺す能力があるエドガーはもちろん戸惑います。
アランがエドガーとの関係性で不安や嫉妬に駆られると、校内のトラブルは起きます。
ぼくが散ってしまっても
きみは泣きもしないんだろ
なんていう嫌味を言って、激怒したエドガーからの"唯一無二の愛"が確信した後は、素直に守られる者、弟のような存在に戻っています。
エネジーの交換という行為が官能的なので、エドガーとアランの関係性はいつも微妙で危ういものがあります。
学園祭で上演するシェークスピアの『お気に召すまま』で2人が演じるのは、宮廷を追われ男装して森に逃げ込むロザリンド姫(エドガー)と、彼女を愛し、家族を捨てて一緒に逃げるエリアナこと従妹のシーリア姫(アラン)です。ロザリンドとシーリアの同性愛的関係描写は、長く論議されているテーマであるということもサブプロットとして生きてきますかと。
エドガーはアランにとってシーリアにとってのロザリンドよりもはるかに密接で重要な存在。保護者であり、兄であり、親友であり恋人、生涯の伴侶であり...全世界。少年愛だけではくくれない、かけがえのない存在ではないでしょうか。
そういう関係性の描き方も、ヘッセ的だなと思います。
アランに誘惑されて、恋心のようなものを抱いてしまうマチアス。これもまた、増山氏的少年愛とは全く異なる方向に展開していきます。
前進する時間と止まる時間、死すべき子ども
負けず嫌いで信念を持って行動し、自分の意見をハッキリ言うエドガーと キリアン。学園祭の演劇『お気に召すまま』のヒロインとヒーロー役でもあります。人を思いやるアウトサイダーというよく似てたところがあるのに、ぶつかり合いながら友人になっていくことはできません。
何故なら、2人は前進するべき時間と止まってしまた時間という、相入れない時間を生きる者たちだから。第4回で入ってくるキリアンのモノローグと絶え間なく響くエドガーのモノローグの重奏が素晴らしいコントラストで2人の立場を際立たせます。
いつもーー死にたかったのはーーぼくーー
ぼくは無力な人間のたぐい
国境すら越えられ...ない...
母親が殺された過去、会えない父親、死にたくなるような孤独に耐えながら、キリアンは年上の女性に片思いをし、前向きに生きようとしています。
遠い者どもよ
ぼくたちですら
いってしまう者に対し
残される者の悲しみを知っている
219年もの時を生き、抱えきれないほどの喪失に悩まされエドガーは、止まってしまった時間の中で澱のような悲哀を堆積させています。
多分この相違を意識して、キリアンが苦しみながらも生きることを望んでいるから、エドガーは距離を置くのでしょう。
一方、社会性がないので自分に無自覚なアランは距離を置くことを知らず、マチアスを誘惑します。
膝が悪いので他の生徒たちのように飛び跳ねたり踊ったりできないマチアスも、心優しい少年。哀しみに打ちのめされそうなキリアンを無言で受け止め、支え続けてもいました。
マチアスも、あまりにもやさしすぎる「すこしばかり神経が細い育たない子ども」ではないでしょうか?だからアランに惹きつけられ、エドガーとアランのエナジーの交流に異質なものの気配を感じ取ってしまったのではと、思え…
それが仇となって、エドガーにバンパネラ化されてしまいます。
物語の深層を考えると、「育たない子ども」のマチアスがアランに惹かれたということは、仮性恋愛というだけでなく、永遠の少年という時の止まった存在に引き寄せられたとも考えられます。
何故そう読み取るかというと、キリアンがバンパネラ化して目覚めるマチアス消滅を計画し、唯物論的科学至高のテオの手でマチアスの心臓に杭を打ち込ませるからです。
これは、マチアスを危険で異質な生ける死者にしないための方策でした。
ですが、「育たない子ども」という本編のテーマを考えると、成長することを決意したキリアンが、内なる子どものマチアスを殺しす通過儀式、萩尾氏作品『半神』にもつながる成長のための犠牲と考えることができるでしょう。
前進する時間と止まっている時間、成長するために死ななくてはならない内なる子ども。そのコントラストがあまりにも鮮烈なので、『小鳥の巣』は、バンパネラの少年たちが殺人を犯して何事もないかのようにさっていくいくというホラーミステリーを超える人間の物語として深度化できたのだと思います。
寄宿学校という舞台
男子寄宿学校が竹宮氏の専売特許であるかのような非難もありました。そうでしょうか?
男子寄宿学校というのは、ヘッセのように内省的なドイツ作家が好んで扱う素材でした。映画では竹宮氏と萩尾氏が1971年に一緒に見たという『悲しみの天使』のみならず、フォルカー・シュレンドルフ監督の『テルレスの青春』も同時代の作品。1987年にはルイ・マル監督の『さよなら子供たち』なんて名作も出てきます。
つまり、男子寄宿学校というのは、かなり普遍的な題材なのです。
何故でしょう?
もちろん、『悲しみの天使』のように少年愛的メロドラマを描くための寄宿学校ものもありいますが、それ以外に上に挙げた作品群は~~
少年たちが「自分とは何者なのか?自分は何をなすべきなのか?」という根本的な問いに人生で初めて向き合うシチュエーションを描いています。
「自分という存在を問う」という内省に、禁欲的な男子奇襲学校は格好の舞台を提供するのです。
この意味でも、『小鳥の巣』の寄宿学校は見事に機能しています。
竹宮氏に盗作非難されたパーツはすべて、見事にテーマを支える必須のモチーフとなっているのです。
すべて小さな箱の中
失ったものを嘆き悲しむという『ポーの一族』の世界観に、『小鳥の巣』は失ったものを乗り越えて前進する少年という視点を加えて作品を進化させました。
さらに、最終回扉絵に後から付加されたエドガーのモノローグが、この孤独な詠嘆さえも深化させています
そんなふうにしてーーすぎてゆく
ああ夢
遠い日びーー
遠い愛ーー
涙
悔いーー
すべて小さな箱の中
あるいは小さな池の中
はせるのはただ
思いばかり
長く生きていると、人は失うものが多すぎる。国の分断や民族の局地戦と、大きな問題は山積みだけれど、無力な人間が悩ませられるのは身の回りの出来事。そして失ったものは、いくら思いをはせても帰っては来ない。
世界の広大さと人間のちいささ、脆さを見事に表現しきった言葉。この言葉が楔のように刺さることで、『小鳥の巣』は『ポーの一族』という名作中の屈指の名作となったのだと思います。
そして
盗作非難事件と萩尾氏が大泉サロンという居場所を失ったからこそ出てきた血のにじむような苦しみの中から出てきたモノローグではないかと、一読者は察するのです。
非難の言葉や仲間外れが人間萩尾望都を傷つけることができても、作家萩尾望都はそれさえ養分にしてさらに成長する。
傑出した創造的才能は恐ろしいものだと、一段と確信した『小鳥の巣』でした。