エンタメ 千一夜物語

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『ある少年H』20世紀の少年を追悼する

吉田書店刊行

20世紀の子供たちはどんな風に生きてたの。戦後の文化はどんな感じだったのだろう。壊れかけてる日本を目撃して不安に駆られる今日この頃、日本に明るい未来があった時代の大衆文化にどっぷりつかって成長する少年Hと出会った。

 

 

Hはいつもフルパワー

5歳で終戦を迎えたHはバリバリの戦後派20世紀少年。戦争直後というと経済と食料の逼迫した焼け跡闇市の光景を思い起こしがちだが、品川で鋳物の町工場の惣領息子して生まれたHときたら、持ち前の活力と好奇心で疎開なんぞもものとせず、子供時代を楽しみきっている。

復興景気で沸く町工場という小金持ち一家ではあるけれど、決して閉じたプチブル生活ではなく、住み込みの従業員やらご近所さんやら、親子三代の夕飯には必ず客人がいるような、なんとも賑やかな暮らしぶり。

昭和だなあって思いますねえ。独居老人なんてのもいたけど、飯時に迎えてくれるよその家があったり、茶を飲みに来るよその家族がいたり、親が病気になったりすればご近所が子供の面倒見てくれたり、向こう三軒両隣って言葉の通り、温かいコミュニティがあったんですよね。

仲間の子供や親しい大人たちに囲まれて、けっこう色々な価値観に触れながら育っていく。町の教養人みたいな人もいるし、ただのおっさんやおばさんもいるし、見分が広まる成育環境だったんですよね。

 

Hのご先祖を辿れば御家人で、お爺様は空襲の時に屋根に上って米軍機に向かって日本刀を振りかざしたので家が焼けなかったなんていう武勇伝も載っている。Hの心意気を知る私などは、真偽はどうあれいかにも彼の爺様らしい逸話だなあと手を叩くのでありました。

こんな心意気の爺さんに可愛がられて小金を持ったHは、声はデカいわ、いたずらだわ、運動はからっきしなのに喧嘩が強く、なかなかにやんちゃな小学生として戦後の文化を謳歌していくわけです。

 

私が出会った頃のHは、サルトル研究の新任助教授であったけれどもエマニュエル・トッドの紹介者として広く知られたころには、恰幅の良い体躯で紺地に白い縦縞の三つ揃いなぞを着こなして、一見マフィアのボスのようだった。まさにこの爺様の孫に相応しい男振りであったなと思います。

御祖父譲りの気性もよく顔を出し、ほろ酔いになると「フランス語なんざぁできなくってもいいんだ。文学さえできりゃあいいんだ」なんていう、江戸前の啖呵が出てくる。仏文学者には珍しいというと語弊があるだろうけど、実に小気味のいい人物でもありました。
そんなHの少年時代、読んでて楽しくないわけないのです。

 

泥臭くもカラフルな下町文化

近所の子供たちと棒水あめをくちゃくちゃさせながら見た紙芝居に夢中になって絵物語を描き始めたり、門付けに来た三河万歳に芸の披露を所望したり、旅回りの大衆演劇の一座が訪れる劇場があって、その一座から学芸会の衣装を借りたり、戦後のエンタメ文化は見て触れて匂うような距離に存在していたのが、文章の端々に伺われます。

自宅にご近所さんを招いて盛大な宴会を催して、それれぞれが芸を披露するなんてこともザラで、バアバのストリップなんて珍芸も登場したらしい。まさに参加するエンタメ文化ですな。

 

とはいえ、それらはレコードやラジオ、映画やテレビといった仮想メディアにどんどん入れ替わっていく

少年Hは五反田の映画館に通いつめたりしていた。見た膨大な映画の数々。チャンバラから小津安二郎から西部劇、戦争映画と、何でも見て見て見尽くす少年H
ハリウッドの美人女優に春の目覚めを触発されたりもし…

 

H助教授の映画知識は広範でしたねえ。ただ、あまりにも膨大なため、かなりいい加減なところも多かったですかと。

私がシド・チャリシー好きだと知って「彼女はインディアンの血を引いてて」なんて教えてくれるんだけれども、眉唾で。調べたら、シドはロシア人のフリしてバレエ・リュス・ド・モンテカルロのコールドやってたテキサス娘でしたよ。アドルフ・ボルムやブロニスラヴァ・ニジンスカなんていう巨人たちに師事してたんです。宝石商のリッチなお嬢様ネイティヴ・アメリカンを先祖に持つエヴァ・ガードナーと混同してたんだろうなあなんて。二人とも、ブルネットが印象的なとびっきりの美女だから、ミュージカルやバレエファンでもない限り混同するんでしょうねえ。

そんな与太話もご愛敬な人でした。


ラジオとレコードと芸人H

演芸も当時はレコード化されていて、H少年宅には広沢虎造の浪曲『石松三十国船』があり、家では氏も盛んに唸っていたという。
船道中の寄り合いで、街道一の親分と清水の次郎長の名を挙げた若い衆に石松が
「江戸っ子だってねえ」
「神田の生まれよ」
「酒飲みねえ… 寿司喰いねえ…」
と、上機嫌になる名調子。江戸っ子のHにはなんとも嬉しい話であったろうかと。

落語「置泥」「花色木綿」をラジオで2回ほど聴いて覚えてしまい、これを嗜んで学芸会でも披露していたという天才的少年芸人逸話などもあり。
学芸会の芝居でも活躍し、高校では演劇部に入って大宮デン助のような出で立ちでデビューを果たし、定期公演には欠かさず出演していたという。

もはや、立派な芸人と言って差し支えないキャリアを持つ少年Hでした。

芸道を進んでいれば、西田敏行や渥美清くらいにはなったんじゃないかなんて夢想するH名誉教授。とんでもない自信家だねえ。西田敏行はありかもしれないけど、渥美清はコミカルな凡庸さの底に計り知れないペーソスをひそめた唯一無二の役者でしょう。

 

とはいえ、Hも文学者として偉大でありました。彼の購読を受けていると、日本語が抜群に上手くて魅力的だった。翻訳調のわざとらしさがなくて、正確でありながら彩り豊かな語彙と音韻に溢れていたんですよ。声もちょっとガラガラして渋くてね。
単に文学書や思想書を読むだけでなく、豊かな大衆文化の演者としての経験がHの言語世界と言語表現を果てしなく豊かにしていたような気がします。

 

テレビっ子第一世代

中学一年の時にテレビ放送が始まったというH。これぞテレビっ子第一世代。
テレビ受像機が発売されて間もなく自宅で購入が決まり、それを吹聴したがために同級生が家に押し掛けるなんてエピソードもあります。
そういう時代だったんですねえ。街頭のテレビに人だかりがしたり、高度経済成長期に入ってさえ、白黒テレビに洗濯機に冷蔵庫が家電の三種の神器なんて言われていた。

H少年はテレビの黎明期から日本のドラマやらアメリカのホームドラマやらバラエティに親しみ、テレビから何かが流れてくるお茶の間を終生楽しんでいたようです。
将に、昭和の息子が主となったリヴィングであります。

 

H助教授は、アニメもよく見てましたね。Hゼミのコンパと言えば、高歌放吟の演芸大会に至るのが常だったのですが、「バカボンのパパの歌」とか「ぼくらのマジンガーZ」なんぞを、Hはよく響く美声で歌いあげてくれましたっけ。

 

日本の大衆がレガシーメディアを信じ、未来に希望を託すことができた時代の文化をH少年は浴び、自由を謳歌して独自の文化的視座を作り上げていったと言っても過言ではないでしょう。

 

Hの多層的文化世界

この『ある少年H わが「失われた時を求めて」』では、テレビ愛視聴者の思い出がフランソワ・トリュフォーの『華氏451度』の文明批評に繋がったり、サルトル『聖ジュネ』について述べられたと思うと、サルトルの映画好きエピソードが五反田の映画館通いに続いて語られていたり、タヴィアーニ兄弟の映画を語る中でミケランジェロのピエタ像が出てきたり。
戦後の大衆芸能とメディアの歴史とその中で育つ少年の感性に、フランス文化の精髄が交錯するするような、実に多層的なHの内的世界を鮮やかに描いています。

 

根底にあるのは、多分、アプレゲールの自由闊達な気風であると、僭越ながら考えます。Hは自由を愛し、自由を希求する人だった。
トッドやピエール・ブルデューの紹介者として名高いのですが、その根本にあるのはサルトルの思想であると今も思うのです。

 

退官時の記念公演も当然サルトルで、
「我々は自由なのだ。我々は自由なのだ。我々は自由なのだ」と連呼して締めくくった姿が忘れられません。

 

 

Hを哀悼する

この書籍は2019年の刊行。何故、今更読んでいるのか。それは、購入させていただいたにも拘わらず、読まずに積読していたからに他ならないのです。
なんで急に読む気になったのか?それは、Hが亡くなったことを今更知ったから。学部からのお便りを、これまた読み忘れており、人生の恩人ともいうべきH名誉教授の訃報に気づかないでいたからです。

 

私自身はサルトルに傾倒していたわけでもなく、卒論の担当教授が見つからなかったのを哀れに思ったH助教授がその任を引き受けてくれたので、ゼミに参加させていただくことになったという情けない学生だったが、そんな愚か者にも真摯に向き合ってくれたのがHという人でした。
私はHの弟子ではなく、傍らにたまたま存在した迷える者にすぎない。

それさえゼミに受け入れてしまう懐の広い人物でした。

捻くれた運命論者でわからず屋の小娘に、「実存主義とはヒューマニズムである」を読むように諭し、「知性とは他者を理解しようとする努力のことである」という一生モノの命題を与えてくれましたっけ。

もし、この言葉がなければダメ人間の私は今よりもずっと出来の悪い人間になっていたと思う。Hは私にとって代えがたい恩人です。

 

救いようのない悲観論者に、自由と相互理解への扉を開いてくれました。

厳しいことを言うと、サルトルの実存主義的自由というものは、若年年金生活者のブルジョワジーだから考えることができた個人主義。もっと言えば、フランスの豊かな近代思想は西アフリカの植民地支配と合法的な富の収奪というシステムによる豊かな余剰生活が生み出した産物だということに、私はとっくに気づいており、
人間が自由の刑に処せられているなんて、これっぽっちも信じていないのです。

とはいえ、全き自由への道を信じることは私には難しいけれど、Hという人がその道を歩き続けるのを見てるのは救いでしたよ。

 

なので、追悼の意を込めてこの感想文を書かせていただきました。

 

REQUIESCAT IN PACE, Monsieur H...